宇利城跡

うりじょうあと(Uri Castle Ruins)

【C-AC182】探訪日:2017/7.8

【C-AC182】宇利城跡 愛知県新城市中宇利字仁田36

【MAP】

〔駐車場所〕中宇利交差点のところに専用駐車場がある。

【C-AC182】宇利城跡

   文明年間(1469~87年)、熊谷重実によって築かれた。連郭式と螺旋式を組み合わせた山城で三方を山に囲まれた要害である。主郭は山頂にあり、中央の通路を挟んで西に本丸、東に姫御殿の曲輪があり、どちらも中央の通路に面して土塁があり、平入りの虎口を開く。本丸の北下には横堀状の堀、その奥に「納所平」と呼ばれる曲輪があり、北側は堀切を設けて遮断している。東尾根には「御馬屋平」と呼ばれる曲輪があり、その東下に横堀が付いている。
 1530(享禄3)年、松平清康は今川氏の勢力範囲である東三河を攻めた。その際、清康は宇利城主の熊谷実長が従わなかったため、宇利城総攻撃を決意する。野田城主菅沼定則の先導で城に攻め入ったが、大手の激戦では清康の叔父・松平親盛が戦死するなど損害は大きかった。しかし、城方の岩瀬庄右衛門が清康に内応したため、熊谷実長は本丸に火を放ち裏山から落去、宇利城は落城した。この後、宇利城は清康から菅沼定則に与えられ、さらに近藤満用が城主となった。
 その後、松平氏の勢力が衰えると近藤忠用,康用は今川氏に仕えた。しかし、1568(永禄11)年、菅沼忠久,鈴木重勝とともに再び徳川家康に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃を受けて居城を柿本城に移している。その後の宇利城の動向は明らかではない。

【史跡規模】

【指 定】愛知県指定史跡(1957年9月6日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1468年・1530年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
熊谷重実 H190 熊谷実長 H190 松平清康 MT01
松平親盛 MT01 菅沼定則 G139 近藤満用 F972
近藤忠用 F972 近藤康用 F972

 

【C-AC182】宇利城跡
 比較的勾配も緩やかで、比高90mと距離も長くなく登りやすい。ただ、残された石垣を見るために、本丸の南西部へ降りる際には、勾配がきつく木の根をうまく掴みながら足元を選ぶ必要がある。遺構はよく残されている城跡である。

 

【C-AC182】宇利城跡

 

宇利城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

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登城口に向かう 登城口 松平親盛の討たれた辺り 松平親盛の墓 御馬屋平へ 御馬屋平 井戸跡 本丸へ 本丸 本丸からの遠景 残された石垣の一部 姫御殿