東山天皇月輪陵
ひがしやまてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Higashiyama)
【K-KT058】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1710(宝永6)年1月16日、宝算36で天然痘にかかって崩御した第113代・東山天皇〔在位:1687~1709年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
霊元天皇の第四皇子で、母は松木宗条の女の松木宗子(敬法門院)。諱は朝仁、幼名は五宮。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号にちなむ。
1683(天和3)年2月に直仁親王以来300年ぶりの立太子礼を経て皇太子となる。1687(貞享4)年3月21日に霊元天皇の譲位にともない践祚した。同年4月に即位式をあげた。さらに11月16日には長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた。
しかし、東山天皇即位後も霊元上皇が独断的な院政を敷き、朝廷政務に関わり続けたため、幕府からも上皇に対し政務に口出ししないよう抗議が行われるほどであった。東山天皇も父と対立した朝幕協調派の関白・近衛基熙を信任しており、父の霊元上皇の介入を防ごうとした。 そんな中、1701(元禄14)年3月には、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の柳原資廉,高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主・浅野長矩が指南役の高家・吉良義央に斬りかかり、浅野が即日切腹となるという松之大廊下の刃傷事件が発生している。
天皇には8歳になる第三皇子がいたが、その実父が京極宮文仁親王であるという噂が流され、疑いを抱いた天皇は1700(元禄13)年に第三皇子を寵愛する霊元や宗子の反対を無視して、円満院門跡(公寛法親王)にすることを決めて、事実上皇位継承から外していた。天皇は同年誕生したばかりの第四皇子の寿宮を次の天皇とする考えであったが、1701(元禄14)年に寿宮が早世してしまった。しかし、その直後に第五皇子の長宮が生まれたことで、将来の皇位継承者とすべく長宮の成長を待っている状態であった。
1707(宝永4)年3月、長宮慶仁親王を儲君と定め、翌年立太子させ、1709(宝永6)年6月、譲位を行い、長宮が即位した(中御門天皇)。東山上皇には自ら院政を開始する意向があったと見られるが、その後まもなく天然痘にかかって崩御。その12日後には新天皇の生母の櫛笥賀子も同じ病で亡くなっている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1710年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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東山天皇 | K607 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>