後堀河天皇観音寺陵

ごほりかわてんのう かんおんじのみささぎ(Kanonji Mausoleum of Emperor Gohorikawa)

【K-KT044】探訪日:2015/10.4

【K-KT044】後堀河天皇陵 京都府京都市今熊野泉山町 泉涌寺内

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT044】後堀河天皇陵

   1234(天福2)年8月6日に宝算23歳で崩御した第86代・後堀河天皇〔在位:1221~32年〕の陵である。泉涌寺内にある円丘である。諱は茂仁、高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。
 1221(承久3)年の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇,土御門上皇,順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王の3男であり、出家していなかった茂仁王を即位させた。同年7月9日、立太子礼を経ずして仲恭天皇廃位後に践祚、同年12月1日に10歳で即位した。
 幼い天皇を巡って自分の娘を后妃に送り込みたい有力貴族の活動が活発化し、中宮の地位をめぐって、三条公房の有子(安喜門院),関白・近衛家実の長子(鷹司院),そして、新たに関白に就任した九条道家の娘・竴子(藻璧門院)と交代劇が繰り返された。
 しかし、1232(貞永元)年に、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となったが、院政開始後2年足らずで崩御した。その崩御は中宮・竴子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正・仁慶の怨霊の祟りや、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1234年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
後堀河天皇 K330

 

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