筒井順慶墓所
つついじゅんけい ぼしょ (Grave of Junkei Tsutsui)
【K-NR021】探訪日:1994/7.3・2018/10.21
奈良県大和郡山市
【MAP】
〔駐車場所〕
1584(天正12)年8月11日、36歳で病死した筒井順慶の墓所である。明智光秀死後は羽柴秀吉の家臣となり、大和の所領を安堵されたが、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いに際して秀吉より出陣を促され、伊勢,美濃へと転戦した後、大和郡山城に帰還して程なく亡くなった。出陣前から胃痛を訴え床に臥していたという。いったん円証寺に葬られた後、この長安寺の墓所に改葬された。順慶を供養する五輪塔や一周忌に寄進された石燈篭は、桁行1間,梁間1間の宝形造りの覆堂に護られている。
父・筒井順昭の代に大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に戦国大名化していた筒井氏であったが、順慶は2歳で家督を継ぐこととなる。1559(永禄2)年から松永久秀が侵攻すると、筒井氏と松永氏の争い,和睦が繰り返された。織田信長の入京により、やがて信貴山城にて久秀父子が切腹または焼死すると、順慶は久秀の遺骸を回収し、達磨寺に手厚く葬ったという。
1580(天正8)年には信長より本城とする城以外の城の破却を促す命令が出されると、順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した郡山城に移転した。1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後、順慶は明智光秀から味方になるよう誘われたが、静観の態度を貫徹した。しかし、6月14日、順慶が京都醍醐の羽柴秀吉に拝謁すると、秀吉から遅い参陣を叱責され、その後体調を崩したという。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】五輪塔覆堂 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1584年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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筒井順慶 | MW21 | 筒井順昭 | MW21 |