和田塚
わだづか(Wada Zuka Mound)
【K-KN006】探訪日:2008/5/1
神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-4-7
【MAP】
〔駐車場所〕
和田塚は1213(建保元)年に起こった北条義時と和田義盛による武力衝突(和田合戦)に敗れた和田一族が埋葬された地とされる。和田塚となる前は「無常道塚」あるいは「采女塚」とよばれた古墳時代の墳墓であった。
北条時政・義時親子は、比企能員,畠山重忠という有力御家人を倒し、最大のライバルである三浦一族を狙う(和田氏も三浦一族)。1213(建保元)年、信濃国の泉親衝が前将軍源頼家の遺児千寿を擁して北条氏打倒の乱を企てるが、事前に発覚し捕らえられる。これに和田義盛の子である義直と甥の胤長が加わっていた(泉親衝の乱は北条氏の罠ともいわれる)。和田義盛は子や甥の赦免を嘆願するが、北条義時は子の義直の赦免のみとし甥の胤長を陸奥に配流する。これ以外にも義時は和田の面目を潰す挑発を続け、ついに5月2日、義盛は北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。ところが、当初は同族の三浦義村,胤義親子は義盛に協力する約束をしていたが、土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと訴えた。和田一族は幕府を攻撃し、幕府の建物は全焼。しかし、翌日には幕府軍の軍勢が増え和田軍は劣勢に陥る。義盛の四男・義直が討たれると、義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67歳であった。共に自害した一族は250余人ともいわれている。なお、義盛を裏切った三浦氏は、「三浦の犬は友をも食らう」と蔑まれ、やがて宝治合戦で北条氏に滅ぼされてしまう。
1895(明治25)年、六地蔵から由比ガ浜への新道をつくろうとして塚の一部を崩したところ、 おびただしい人骨がでてきた。おそらく和田合戦の時のものであろうということで「和田一族戦没地」の碑が建てられた。