本多康重,康紀,忠利墓所〔撰要寺〕
ほんだやすしげ,やすのり,ただとし ぼしょ〔せんようじ〕(Graves of Yasutaka, Tadamasa Osuga[in Senyo-ji Temple])
【K-SZ053】探訪日:2024/9.15
静岡県掛川市山崎
【MAP】
〔駐車場所〕撰要寺西側に駐車場がある。
1645(正保2)年、三河国岡崎藩の第4代藩主から遠江国横須賀藩主へと転封になった本多利長が、一族で岡崎藩主であった本多康重(1611年5月4日死没),本多康紀(1623年11月17日死没),本多忠利(1645年3月7日死没)の墓石を岡崎から海路、横須賀へと運び、撰要寺本堂北の丘陵中腹に営んだ。撰要寺にはこのほか数多くの墓があるが、そのうち大須賀康高,大須賀忠政の墓塔(高さ約4m)をはじめ、小笠原家一族(五輪塔4基)など計45基の墓塔群が静岡県指定史跡に指定されている。
本多康重は主君の徳川家康から片諱を与えられ、ともに主たる戦いに参戦し、関ヶ原の戦い後は三河岡崎藩初代藩主となる。2代・康紀も元服して家康から偏諱を授かった。大坂冬の陣に参加し大坂城の堀埋め立て・石垣破壊の奉行を務めた。3代・忠利も父と共に大坂夏の陣に参戦し戦功を挙げている。横須賀藩への移封を命じられた翌月に病死した。6男の利長が跡を継ぎ、横須賀藩へと移る。ちなみに利長は1682(天和2)年に不行跡や過酷な藩政を布いたとして一時改易となった(後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている)。