西行墓所〔弘川寺〕
さいぎょう ぼしょ〔ひろかわでら〕(Grave of Saigyo[in Hirokawa-Dera Temple])
【K-OS027】探訪日:1992/10/18・2017/9.24
大阪府南河内郡河南町大字弘川
【MAP】
〔駐車場所〕
俗名は佐藤義清。16歳頃から徳大寺家に仕え、20歳の1137(保延3)年には鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、1140(保延6)年に23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、心の赴くまま奥羽,四国,関東と巡り諸所に草庵を営み、多くの和歌を残した。1186(文治2)年には東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、その途次に鎌倉で源頼朝に面会している。
その後、伊勢国に数年住まった後、1189(文治5)年、空寂座主を慕って河内国石川郡の弘川寺に庵居し、翌1190(建久元)年春にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、後の世に広く知られている。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 鎌倉時代 |
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関連年号 | 1190年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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西行 | F934 | 源 頼朝 | G202 | 空寂 | **** |
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▲句碑「ねかわくは・・・・・・もちつきのころ」