大浜騒動護法有志墓所
おおはまそうどうごほうゆうし ぼしょ
(Graves of Persons Who Defended Buddhist Doctrines in Ohama Riot)
【K-AC142】探訪日:2020/11/13
愛知県安城市小川町志茂
【MAP】
〔駐車場所〕
1871(明治4)年に三河国碧海郡の鷲塚で起こった廃仏毀釈に反対する暴動(鷲塚騒動,菊間藩事件ともいう)で処せられた蓮泉寺の石川台嶺らの墓碑である。
明治政府の神仏分離令や明治天皇の大教宣布詔によって、これまでの宗教に対する混乱が生じる中、上総国菊間藩の大浜出張所(菊間藩は碧海郡,幡豆郡に飛び地領をもっていた)は政府方針に従い宗教改革を進めていたが、藩と関係をもつ西方寺と光輪寺が宗規を破って寺院の合併等について請書を提出した。これを詰問しようと真宗大谷派の三河護法会の総監・星川法沢と幹事・石川台嶺が西方寺と光輪寺に向かう途中、デマも広まり多くの門徒が集結してきた。不穏を察知した出張所は、役人5人を派遣して庄屋片山宅で護法会と交渉を行ったがまとまらず、苛立った門徒が暴徒化した。身の危険を感じた出張所役人は応援を求めるべく庄屋宅を脱したが、5人のうち一番後ろにいた者が多数の暴徒に暴行殺害されてしまう。裁判の結果、石川台嶺と暴徒1人は斬罪に処され、その他多くの僧侶と門徒百姓が実刑となった。
1883(明治16)年に東本願寺は台嶺の行動を護法と認め、1887(明治20)年の台嶺17回忌に本墓碑を建てた。さらに、1889(明治22)年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦により関係者の罪が許され名誉回復が為された。