平 康頼墓所〔野間大坊〕

たいらの やすより ぼしょ〔のまだいぼう〕(Grave of Yasuyori Taira [in Noma-Daibo Temple])

【K-AC006】探訪日:1990/7/30・2007/8/25・2014/3/9

【K-AC012】平   康頼墓所 愛知県知多郡美浜町大字野間東畠50

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC012】平   康頼墓所

   明法道の家柄である中原家に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となり、18歳の頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は1167(仁安元)年に尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した。尾張国野間内海荘には非業の死を遂げた源義朝の墓があったが、守る人もなく草が生い茂り荒れ果てていたため、小堂を建て田三十町を寄進して僧6名を置いて供養に当たらせた。当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達し、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え近習に取立てた。また、清盛はじめ平家一門からも敵将の墓を修理して保護した康頼を武士の鑑,一門の名を高めたとして好評判であった。しかし、康頼はその後、鹿ケ谷事件に関わり薩摩国鬼界ヶ島へ流された(平清盛により赦免)。義朝の子である頼朝は平家滅亡後の1186(文治2)年に内海荘での功績に応え、康頼を阿波国麻殖保の保司に任じたという。
 1220(承久2)年頃、自らの生涯75年間におきた出来事を記録し、その年に大往生した。遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めた。康頼神社の脇に3基の五輪塔があり、康頼の母,康頼,俊寛の3人のものという。
 野間大坊にある平康頼の墓については、義朝家臣の供養塔を康頼の墓と誤り伝えたもの、あるいは後世、寺に関係した者が大御堂寺創建者としての康頼を供養し建てたものと考えられている。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 平安時代(後期) 鎌倉時代
関連年号 1167年 1220年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
平 康頼 NK** 源 義朝 G202 源 頼朝 G202
平 保盛 H106 俊寛 ****

 

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