井ノ口城跡
いのぐちじょうあと(Inoguchi Castle Ruins)
【C-AC656】探訪日:2023/8.27
愛知県岡崎市井ノ口町楼28-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1465(寛正6)年、三河国額田郡で起きた額田郡一揆の際、大場次郎左衛門,丸山中務入道父子,梁田左京亮,芦谷助三郎らの侍たち一揆側が籠居した砦とされる。城主に井口左馬助長家,赤白大納言の名がある(一揆勢の構成員に名が見えない)。
当時の三河では、将軍家御一家の吉良氏が東条家・西条家に分かれて対立抗争を国内の国人・地侍衆も巻き込んで繰り返していた。この結果、吉良氏惣領の西条家の権威は失墜し、両家を問わず吉良氏の下知に従う者がほとんどいなくなる状況であった。こうした中で、三河額田郡内において、大場次郎左衛門,丸山中務入道父子らが井ノ口砦に籠居して武装蜂起し、室町幕府の威令に服さず、ただ古河公方・足利成氏の命と称して、域内の主要な道を封鎖して京都への租税等官物を奪うなどの狼藉を働いたという。
室町幕府は、同年4月に三河守護・細川成之に鎮圧を命じ、成之は三河に発向して西郷六郎兵衛,牧野出羽守の両名にも出陣を命じた。西郷氏・牧野氏は数百の軍勢で井ノ口砦を陥落させたが、一揆の大将分を全て取り逃してしまった。
そこで、幕府は代わりに同国の松平信光,戸田弾正少弼宗光に新たに鎮圧を命じたが、ともに一揆側を放置または加担する有り様であった。業を煮やした三河守護・成之は被官を幕府政所執事・伊勢貞親のもとに派遣して、伊勢氏被官である松平氏らが一揆勢の狼藉を許している状況を訴えた。貞親は一揆鎮圧を督促する内容の奉書を松平氏・戸田氏ら宛に作成し成之から伝達されると、両氏は一転、激しく一揆勢の拠点を攻め立てた。結果、大場次郎左衛門は深溝で松平大炊助に討たれ、丸山中務も大平郷で戸田氏が討ち取った。また、三河国外への逃亡を図った芦谷助三郎,大場長満寺らは駿河の今川領内丸子において今川義忠に討ち取られ、ようやく一揆は終息した。
この恩賞により松平氏は深溝や形原,五井,長沢などの地を得ることになり、これらの所領には息子らを配して、三河国において戦国大名化するための基礎を築くこととなった。また、戸田氏も新たに東三河の渥美郡田原付近に恩賞の地を得たことが、その後、渥美半島支配へとつながった。
城(砦)は台地端に築かれ、現在は井ノ口稲荷神社が建てられている。明確な遺構は残されていないが、神社北側の斜面やその下を流れる川は切岸,堀の雰囲気をうかがわせる。