土井城跡
どいじょうあと(Doi Castle Ruins)
【C-AC625】探訪日:2023/6.26
愛知県岡崎市土井町城屋敷17
【MAP】
〔駐車場所〕駐車場はないため、土井氏一族の発祥地(社口司社)前のスペースへ駐車させていただく。
築城年は定かではないが、本多信重が松平宗家6代・松平信忠,7代・清康に仕え、土井に城を築いて住んだとされる。碧海郡土井の地は、祖父・本多豊後守秀清が松平宗家5代・松平長親に仕え、1497(明応6)年に功あって賜った領地である。秀清は翌1498(明応7)年に没した。その子・清重は1516(永正13)年に没して坂崎の円行寺に葬られた。清重の子である信重も1529(享禄2)年、今橋城(吉田城)攻めの時に御油の縄手で討死し、円行寺へ葬られた。享年23。信重の子・広孝は土井城に生まれ、このとき3歳であったが相続して土井城に住み、松平広忠,元康(のちに徳川家康)に仕えた。元康が岡崎城に戻ったのちの1561(永禄4)年の東条城攻めや1563(永禄6)年の三河一向一揆、そして1564(永禄7)年の田原城攻めで戦功を挙げ、広孝はそのまま田原城主として土井を離れた。
広孝の子・本多康重も土井城で生まれ、父に従い転戦して、1590(天正18)年の小田原城攻めの功により上州白井2万石の城主となったのち、1601(慶長6)年には岡崎城主となっている。
土井城は約200m×400mと規模が大きく、藤ノ木甲から土井氏一族発祥地の碑がある社口司社の辺りまで南北に3つの曲輪が並列していたとされる(中央が主郭)。1590(天正18)年に豊臣秀吉の命で田中吉政が岡崎城主となり廃城命令が出されると、土井城とその周りの堀はすべて埋められて水田となった。遺構は残されていない。
なお、約150mほど南東の南赤部内の北側にも私的居館があったとされる。