鷲塚城跡
わしづかじょうあと (Washizuka Castle Ruins)
【C-AC353】探訪日:2020/11/17
愛知県碧南市尾城町2丁目16-5
【MAP】
〔駐車場所〕
鷲塚村は1561(永禄4)年まで吉良氏の支配を受けていたが、吉良義昭が藤波畷の戦いにおいて岡崎の徳川家康に敗れると、家康の支配地に変わった。1562(永禄5)年、家康は鷲塚城の築造を命じ、1564(永禄7)年、鷲塚村の片山家に身を寄せていた刈谷城主水野忠政の九男水野忠重を城主に任じた。忠重は1561(永禄4)年より家康に仕え、1563(永禄6)年から翌年にかけて勃発した三河一向一揆において戦功を挙げていた。
忠重は1580(天正8)年まで城主を務めた後、織田信長に追放された佐久間信盛に代わり刈谷城主となった。鷲塚城は1590(天正18)年まで代官が置かれていたが、以後は廃城となった。
鷲塚城は、東西470m,南北360mの規模で、東浦と呼ばれた入江に突き出た半島部分に築かれ、浸食谷を中央に挟んで南に突き出た二つの半島状台地にあったという。西の丘は「水野氏の馬場」と呼ばれ、東の丘の曲輪に居館があったとされるが、こちらは現在は低く削り取られている。削り取られた大量の土砂は伊勢湾台風の復興工事の際に利用された。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1562年・1564年・1580年 | 1590年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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徳川家康 | TG01 | 水野忠重 | G606 |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲ここを入ると尾城公園駐車場
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▲高台が「水野氏の馬場」跡
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▲水野氏の馬場跡にある城址碑
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