萱生城跡
かようじょうあと(Kayo Castle Ruins)
【C-ME126】探訪日:2024/10.2
三重県四日市市萱生町248
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、室町時代中期に春日部宗方によって築かれたとされる。
文治年間(1186~89年)、富田館に居を構えていた伊勢平氏の富田家資一族が春日部姓を名乗り、子孫の春日部詮義が伊勢国朝明郡を所領したのが始まりで、伊勢春日部氏は北畠氏に仕え、神戸氏,関氏ら有力氏族と共に、北勢四十八家の一部勢力の伊勢の六人衆と呼ばれた。
1568(永禄11)年、城主・春日部俊家のとき織田信長の北勢侵攻で羽柴秀吉,滝川一益らの攻撃を受けたが、要害の地ゆえに容易には陥落しなかった。しかし、1573(天正元)年、5年間奮戦した要塞・萱生城も兵糧が尽き、手負いの将兵の傷も癒える間もないまま、織田勢の総攻撃によって炎上し灰燼に帰した。俊家は滝川一益に連行されたという。今に残る「髪のびの井戸」は、落城時に女人衆の多くが身を投じた井戸と伝わり、それ以来、この古井戸に姿を映す人は髪が伸びると語り伝えられるようになったという。
1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いの際には、織田信雄は佐久間正勝に萱生城を守らせ、羽柴秀吉に備えた。
現在、城跡は学校法人・暁学園の本部となり、遺構はほとんど残されていないが、暁学園の平面地形図で消滅前の形状を知ることができる。城は朝明川南岸に半島状に突き出した標高55mの急峻な台地上に築かれ、規模は320m×160mであった。約30mの深い空堀で区切られた北東側の曲輪には、5~10mの堀を四重にめぐらせた一段高い25m四方の天守跡と呼ばれる壇があったとされる。また、その曲輪の西側にも曲輪があり、北西側を土塁、南西側を堀で区画されていた。