丹野城跡
たんのじょうあと (Tanno Castle Ruins)
【C-AC014】探訪日:2014/5/1
愛知県蒲郡市相楽町
【MAP】
〔駐車場所〕
京都で応仁の乱が勃発し全国へと広がる中、1469(文明元)年、萩原左衛門芳信が標高363mの御堂山山頂に築いた城である。芳信は備後国萩原の里に住していたとされ、何らかの理由で三河の地に移り住んでおり、三河守護・細川成之の被官であったともいわれている。築城には御堂山中腹にあった全福寺の資産を取り掠め僧徒を動員し、仏器を溶かして兵器とした。
1470(文明2)年、牛久保城の牧野成時(古伯)軍の攻撃を受けた。同年7月、敵兵に山を囲まれた芳信は自ら手勢を率いて下山し、これを追ったが、赤根(豊川市御津町)まで来たとき、率いてきた自兵たちの裏切りに遭い、進退窮まった芳信は馬上切腹して果てたと伝える。その地は備後林と呼ばれる。芳信の位牌は、菩提寺である長興寺にあり、祭神になっている萩原神社は豊川市御津町にある。なお、芳信の子に男子2人(4歳と2歳)と女子1人がいたが、男子2人は赤根の今泉家に匿われ、長男四郎は後に養子となって分家した。しかし、息女は落ち延びる途中で自害して果てたという。大塚の「姫塚」がその場所とされる。
城としては御堂山山頂に本丸(主郭),腰郭や堀切などの遺構を残すが、わずか1年という短命であった。
【史跡規模】 |
【指 定】蒲郡市指定史跡(1974年3月7日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 室町時代 |
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関連年号 | 1469年・1470年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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萩原芳信 | F*** | 牧野成時(古伯) | MC01 |
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▲本丸
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