浅野城跡(浅野長政宅跡)
あさのじょうあと(あさのながまさていあと) (Asano Castle Ruins[Residence Ruins of Nagamasa Asano])
【C-AC102】探訪日:2015/9/12
愛知県一宮市浅野八剱67-1
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、浅野長勝が亡くなる1575(天正3)年以前には築かれていたと考えられる。尾張中島郡大里村の屋敷(浅野長勝宅跡)から移り住んだ。その後、相婿(妻が姉妹)の縁より浅野長政が羽柴秀吉の配下となり、秀吉が1574(天正2)年に近江国長浜城主となると、秀吉不在時の留守居役を任された。次第に、武功,外交交渉面で頭角を現し、のちに豊臣政権下の五奉行となる。長政が近江へ移った後は、織田信雄の家臣・杉浦五左衛門道祐が中島郡中島,石作,滝の地1100貫を得て居城した。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後、廃城となったとされる。江戸時代は川口次兵衛が二の丸に屋敷を構え、代々この地に住んだといわれる。
浅野長政はその後、1587(天正15)年9月に九州征伐の功をもって若狭国小浜城主として8万石を与えられ、さらに1593(文禄2)年には嫡子の浅野幸長領と併せて甲斐22万石を領するに至った。豊臣秀吉の死後、石田三成ら他の五奉行は德川家康の専横ぶりを怒り家康打倒を画策したが、長政のみは家康と気脈を通じ支持した。また、武断派と呼ばれる親家康派の武将である加藤清正,福島正則らが三成を除こうとしたときも長政は武断派に与した。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでも幸長とともに家康の東軍に与した。1611(慶長16)年、下野国塩原で湯治中に死去。子孫の赤穂藩主浅野内匠頭長矩の「赤穂事件(忠臣蔵)」の話はよく知られている。
浅野城跡は現在、浅野公園となっており、水路部分がそのまま堀跡として残っている。