新城城跡(新城陣屋跡)
しんしろじょうあと(しんしろじんやあと) (Shinshiro Castle Ruins[Shinshiro Jinya Ruins])
【C-AC088】探訪日:2019/5/3
愛知県新城市西入船
【MAP】
〔駐車場所〕
1575(天正3)年の長篠の戦いで勝利した奥平信昌が、翌1576(天正4)年に新たに城を築城し、長篠城から移り住んだのがその始まりである。新城(しんしろ)の名については、長篠城に対する新城(新たな城)であったが、すでに1532(天文1)年に菅沼定継が石田にに築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するために「しんしろ」の呼称とした。これが現在の「新城市」の由来ともなっている。なお、石田の新城は新城古城と呼ばれている。
1590(天文18)年、徳川家康の関東移封によって奥平信昌も上野国宮崎に移った。その後は吉田城の池田輝政の所領となったが、輝政が播磨国姫路へ移封となると、天領を経て、1606(慶長11)年に水野分長が一万石で入封し、子の元綱の時に上野国安中へ移封となる。1645(正保2)年、新城城は廃城となった。
しかし、1648(慶安元)年に菅沼定実が七千石を領して入封し陣屋を築き、菅沼氏の子孫によって明治維新までその支配が続けられた。この間、新城陣屋の北方地には武家屋敷や町屋が形成され、豊川の舟運や伊那街道の交通路を始め、馬がまるで波のように次から次へと行き交う『山湊馬浪』と呼ばれるような人や物流の拠点として栄えることとなった。
陣屋の廃止後は、建物や土塁などの構築物は破壊または移設が行われて更地となって畑地に利用され、1914(大正3)年に現在の新城市立新城小学校の前身となる学舎が建設され、以後学校用地として利用されて現在に至っている。