岩略寺城跡

がんりゃくじじょうあと (Ganryakuji Castle Ruins)

【C-AC223】探訪日:2019/2/24

【C-AC223】岩略寺城跡 愛知県豊川市長沢町御城山 

【MAP】

〔駐車場所〕防獣柵の手前に車を止めるスペースがある。柵がない場合には、山頂の登城口まで車で行くことができる。

【C-AC223】岩略寺城跡

   築城年代は定かではないが、文安年間(1444~1449年)頃に今川氏の一族関口満興、または弟の長沢直幸によって築かれたとされる(長沢直幸は長沢城にいたとも)。1458(長禄2)年には松平信光が長沢の城を攻めとり、長男親則に長沢を与えて長沢松平氏の祖となった。しかし、この長沢城が岩略寺城,長沢古城,登屋ヶ根城のいずれを示すのか、はっきりとはわかっていない。
 岩略寺城は標高169mの城山山頂に築かれており、東海道を押さえる要衝に位置する。主郭は方形で土塁が巡る。北側は土塁の外側に二の曲輪の平地がある。主郭の北西下には三日月堀と記された空堀があり、切岸の裾野を巡る空堀になっている。北へ伸びる尾根に食い違い虎口があり、北側の曲輪は通路に面して土塁を備える。主郭から北東,東へ伸びる尾根に高い切岸の曲輪が連なる。城内には井戸跡とされる深い穴がいくつか残る。
 今川氏の勢力が三河に及ぶと、1547(天文16)年には牧野田三郎が長沢への兵の配置を命ぜられ、1551(天文20)年には匂坂六兵衛門長能が長沢城への在城と普請を命ぜられるなど、西三河との境界として重要視されていた。しかし、1561(永禄4)年には松平家康によって攻略され、家康は深溝松平伊忠を守将として長沢城に入城させ、今川氏に備えた。その後、徳川氏の関東移封に伴い廃城となった。

【史跡規模】

【指 定】豊川市指定史跡(1980年2月1日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1444~49年 1547年・1551年・1561年・1561年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
関口満興 G364 長沢直幸 **** 松平信光 MT01
松平親則 MT15 牧野田三郎 MC** 匂坂長能 ****
徳川家康 TG01 松平伊忠 MT09

 

【C-AC223】岩略寺城跡
 防獣柵を開いて入り、しばらく行くと「近道」と書かれた看板があったのでそこから登ることにしたが、次第に道がなくなり、どちらへ進むべきかわからなくなった。幸いにも上を見上げたところに人が歩いているのが見えたため、道なき斜面を登り、やっと広い道路に出ることができた。そこは、麓の柵がなければ車が登ってくる舗装された道路であった。城跡は遺構がよく残されており、各曲輪にも標柱が立てられており、しっかり確認することができる。なお、下山は、舗装された道を下ることとした。

 

【C-AC223】岩略寺城跡

 

岩略寺城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

【C-AC223】岩略寺城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

城山麓の登山口 これより800m 「近道」から入るとこの下を通る 登城口 南曲輪へ 南曲輪 堀切 本曲輪へ 三日月堀へ 三日月堀 井戸 井戸 本曲輪 本曲輪 井戸曲輪 井戸 二の曲輪 二の曲輪 土塁 土塁 本曲輪から見た腰曲輪 腰曲輪 腰曲輪 腰曲輪