長沢城跡
ながさわじょうあと (Nagasawa Castle Ruins)
【C-AC221】探訪日:2019/2/24・2019/3/2
愛知県豊川市長沢町古城
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、室町初期にはこの地域は今川家臣・関口氏の領治するところであったとされ、長沢の地には一族の長沢四郎(関口満興の弟直幸、または富田右近の子とも)が城館を築いて支配していたという。
1458(長禄2)年、松平信光が長沢四郎を夜襲して城を奪い、子の親則に与えた。親則は長沢松平氏の初代といわれる。
その後、親益,親清,勝宗,一忠と続き、その間に城の規模も大きくなり、東西約200m,南北約250m、土塁や堀が幾重にも取り巻く堅固な城構えとなった。長沢古城は長沢小学校から国道を挟んで北にある「古城」と呼ばれる高台に築かれていた。現在は住宅地となっており遺構はないが、宅地の一角に長沢城の石碑が建っている。
6代・親広は嫡男の政忠とともに1560(永禄3)年の桶狭間合戦に松平元康(徳川家康)軍として出陣したが、政忠が討死。親広は嫡孫・康忠を後嗣とした。康忠は家康のもとで姉川合戦,長篠合戦,伊賀越え,長久手合戦など各地の戦場を疾駆し、徳川十六神将に数えられた。
9代目の康直のとき、1589(天正17)年の小田原攻めに従軍し、翌年の関東移封によって武蔵国深谷城一万石の大名となり、三河を去った。長沢城の城としての機能はこのときに失われたと考えられる。康直は1593(文禄2)年に24歳の若さで没し、嗣子がなかったことで家康は誕生したばかりの7男・松千代を長沢松平家の後嗣とした。その松千代も6歳で早世、家康は6男・辰千代(忠輝)を再度長沢松平氏の後嗣とした。忠輝はその後、下総佐倉5万石、続いて信濃川中島12万石さらに越後高田城主となって75万石の大々名となったが、大坂夏の陣の年の不行跡を咎められ、1616(元和2)年に改易となった。忠輝の改易で長沢松平の嫡流は絶えたが、1719(享保4)年に9代康直の弟正信の子昌興が幕府に訴え出て、長沢松平の後裔であることを認めさせた。後に昌興は三河長沢の地を賜り、幕末期には18代忠敏が講武所教授方や浪士組扱、新徴組支配に任ぜられて幕臣として名を残している。
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▲城跡標柱
▲城跡標柱
▲城址碑
▲城址碑
▲説明板
▲縄張図
▲長沢小学校裏の石垣
▲長沢小学校裏の石垣