和田城跡
わだじょうあと(Wada Castle Ruins)
【C-AC167】探訪日:2023/4.21・4.27・5.2
愛知県新城市作手保永中嶋3
【MAP】
〔駐車場所〕農道沿いの主郭入り口のところに駐車できるスペースがある。
1539(天文6)年、和田奥平氏となる奥平出雲守貞盛の孫・奥平出雲守勝次によって築かれたとされる。上野国甘楽郡奥平郷より三河国作手に移住し亀山城を築いて作手奥平氏の祖となった奥平貞俊の次男・貞盛は和田を領して和田奥平氏の祖となり、その子・出雲守貞寄は岩波城主となり、子の勝次が和田城を築いた(ただ、貞盛の時代に築城されていたとも考えられる)。のちに譜代大名となる奥平信昌の系列とは家系を異にする。
奥平家には七族五老という重臣制度があり、七族は一門衆を独立させるよりも厚遇して主に軍事面を強化し、五老は弱小な在地領主などを家老として抜擢し主に行政面を司った。和田奥平氏は七族の筆頭であったが、元亀年間(1570~73年)頃に武田方に属して甲州に奔ったために、その地位は剥奪された。
和田城は作手の入口にあたり保永の地、いわば作手防衛の最前線にあり、南の山塊から舌状に伸びた台地に築かれていた。現在は、城山は畑となって開墾されているが、数段の平地が拡がっている。遺構は南背後の山側に堀と土塁が残されているが、土塁は農道によって分断,破壊されている。
なお、奥平貞盛の墓所は保永に、奥平貞寄の墓所は岩波城跡近くにある。