村木砦跡
むらきとりであと (Muraki Fort Ruins)
【C-AC064】探訪日:2014/8/19・2021/3/22
愛知県知多郡東浦町森岡取手30
【MAP】
〔駐車場所〕
1551(天文20)年、織田信秀の死を好機ととらえ、今川義元は尾張国への進出をはかり鳴海城,大高城,沓掛城,重原城と手中に収めた。続いて織田方の緒川城の水野信元を攻略しようと重原城を根拠地として資材を送り村木の岬に砦を築き、松平甚太郎忠茂を置いて守らせた。やがて、寺本城の花井氏も今川方へ寝返り、織田信長の那古野城と水野信元の緒川城を結ぶ道を遮断した。水野信元は信長に使いを出して救援を求めた。
1554(天文23)年1月21日、信長はこれに応えて兵を出す。このとき、留守となる那古野城の守りを舅の斎藤道三(妻の濃姫の父)に頼んでいる。陸路の諸城は今川方の支配下となっていたため、信長は強風の中を船で渡海し知多半島西岸に上陸し、翌日、緒川城へ入って水野信元と合流した。
信長は本陣を現在の村木神社付近に置き、24日辰の刻(8時)に村木砦攻撃を開始した。東の大手門から水野忠分、西の搦手門から織田信光(信秀弟)、そして甕型のに大きな堀がある南からは信長が攻撃をかけた。信長勢は砦にあった3つの狭間を鉄砲隊が鉄砲を取り替えては撃たせ、その間に手勢に堀を登らせた(信長が初めて鉄砲を使用した戦いとされる)。両軍激戦の後、午後4時頃には今川方が降参して戦いは終った。
翌25日、信長は寝返った寺本城へ手勢を派遣して城下に放火し、那古野城に帰還した。
現在の八劔神社一帯が砦跡とされるが、八劔神社は戦いの17年後1571(元亀2)年に水野信元の家臣・清水家重,政晴が両軍の戦死者を弔うため建立したものである。このほか、周辺には戦後に織田・水野連合軍が大祝宴会を行った「飯喰場」や今川方に加担した村人を処刑した「処刑場跡」、織田信光の陣が置かれた「後狭間」がある。