馬伏塚城跡
まむしづかじょうあと(Mamushizuka Castle Ruins)
【C-SZ019】 探訪日:2013/3.26・2015/10.24・2024/6.11
静岡県袋井市浅名1156
【MAP】
〔駐車場所〕中域には岡山公民館の駐車場がある。
築城年は定かではないが、今川氏重臣の小笠原信濃守長高によって築城されたとされる。長高は信濃から尾張を経て、三河国幡豆郡の吉良義堯を頼り、後に今川氏親に属して遠江国山名郡浅羽荘を領し馬伏塚城主となった。1501(文亀元)年には遠江守護の斯波氏と駿河守護の今川氏の間に激しい戦いがあり、その際の今川方の拠点の一つであった。長高は1544(天文13)年に城内で没した。子の春義は、今川氏に叛いて北条氏に属した福島上総介正成に代わって高天神城主となり、馬伏塚城主も兼ねた。その子・氏清も今川氏に属し、馬伏塚城,高天神城両城主を務めるが、1569(永禄12)年には今川氏に叛き徳川家康に転仕し、掛川城攻めに功を挙げたが同年没した。氏清は馬伏塚天岳寺に葬られたが、後に了教寺に改葬されている(小笠原氏清墓所)。
1574(天正2)年6月、武田勝頼は遠江を手中にするために、諏訪原城を拠点に高天神城を攻め落城させた。これに対して徳川家康は、高天神城奪回のため馬伏塚城を大改修し大須賀康高を城主として入れた。さらに1578(天正6)年には康高に命じて横須賀城を築城させ城主とし、1580(天正8)年9月に馬伏塚城主には高力清長を入れた。
1581(天正9)年、家康が高天神城を攻略して遠江国の支配を確立すると、馬伏塚城は役目を終え、1582(天正10)年には清長は駿河国田中城へ移り、廃城となった。
城は小笠山から南西に伸びた丘陵先端に位置し、東西約300ⅿ,南北約1,000ⅿ(出曲輪を含む)と広大で、入海を水堀として取り囲む難攻不落の要害であった。現在は大きく変貌しているが、曲輪配置は南北3区域に大別できる。南域は諏訪神社が建つ城山に主郭を置き、大土塁が巡る。東から南にかけて羽城という外曲輪がある(一部は民家)。中域は微高地に二段曲輪が配され、上段には大土塁が設けられている。現在は宅地である。北側には大規模な堀切があった(現在は道路)。北域も微高地の広大な曲輪で伝居屋敷とされ、兵員の駐屯地とも考えられている。南西の了教寺ほか宅地となり遺構は確認できない。また、北側の道路も堀切の跡とされる。