田中城跡
たなかじょうあと (Tanaka Castle Ruins)
【C-SZ075】探訪日:2022/2/27
静岡県藤枝市田中1丁目7-20
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、15世紀の益頭郡郡司・一色左衛門尉信茂の徳一色城が前身である。1537(天文6)年、前年の花倉の乱で今川家当主となった今川義元は徳一色城を由比美濃守に守らせ、由比が桶狭間の戦いで戦死した後は長谷川次郎右衛門正長が守将となった。
1570(永禄13)年正月、駿河今川領国に武田信玄が侵攻し、花沢城を落とした後に徳一色城に攻め寄せたため、長谷川正長は城を明け渡して遠江へと退去した。
信玄は馬場信春に徳一色城を改修させ田中城と改名し、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要と位置づけ武田家家臣・山県昌景を入城させた。その後、板垣信安,山県昌満が入城し、1579(天正7)年には依田信蕃が在城する。1582(天正10)年の甲州征伐の際、徳川勢により再三攻められるが城将の依田信蕃は頑強に抵抗し、主家の武田勝頼の死後まで守り抜いた。その後は武田家を離反した穴山梅雪の説得で開城し大久保忠世に明け渡した。徳川家康は高力河内守清長を入城させるが、1590(天正18)年の家康関東移封後は、駿府城主・中村一忠の管轄となった。
1601(慶長6)年、酒井忠利が田中藩主となり城域を拡張して総郭を設け、藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。酒井忠利が川越に転出した以後は、駿府に居を構える徳川頼宣,徳川家康によって支配された。
1616(元和2)年1月、徳川家康は鷹狩の際に田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食して倒れ、これが家康の死因とする説があるが、その後の症状からみて現在では胃がん説が有力となっている。
1633(寛永10)年以後、松平氏,水野氏,北条氏,西尾氏など城主がめまぐるしく入れ替わったが、1730(享保15)年に本多正矩が4万石で封じられて以降は、明治維新まで本多氏が同地に拠った。1868(明治元)年には徳川家達領となり、田中城は仮城代の平岩金左衛門や田中奉行の高橋精一(泥舟)預かりになった後、廃城となった。
田中城は本丸を中心に直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造である。また、二の丸及び三の丸外に多くの丸馬出しが設けられており、武田氏流城郭の特徴を残している。本丸,二の丸跡および三の丸には、現在、西益津小学校,西益津中学校や民家が建ち並び、一部の水堀や土塁が残るのみである。なお、城跡の東にある「史跡・田中城下屋敷」には本丸の二重櫓が移築されている。
【史跡規模】 |
【指 定】藤枝市指定史跡(1957年3月16日指定) |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1537年・1570年・1579年・1582年 |
1590年・1601年 |
1730年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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一色信茂 | G350 | 今川義元 | G361 | 由比美濃守 | **** |
長谷川正長 | **** | 武田信玄 | G433 | 馬場信春 | G1** |
山県昌景 | G121 | 板垣信安 | G426 | 山県昌満 | G121 |
依田信蕃 | **** | 高力清長 | H188 | 中村一忠 | **** |
酒井忠利 | SK08 | 徳川頼宣 | TG21 | 徳川家康 | TG01 |
中島清次(茶屋四郎次郎) | G454 | 本多正矩 | F506 | 徳川家達 | TG07 |
平岩金左衛門 | **** | 高橋精一(泥舟) | **** |
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▲本丸跡(藤枝市立西益津小学校)
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▲西側に残る三之堀
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▲西側に残る二之堀
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▲大手二之門跡
▲平島二之門跡
▲平島一之門跡
▲三日月堀跡
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▲三日月堀跡
▲三之堀土塁跡
▲三日月堀跡
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▲三日月堀跡
▲三日月堀跡
▲作事役所跡
▲勤番長屋跡
▲史跡・田中城下屋敷
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▲本丸櫓(移築)
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▲仲間部屋・厩
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▲長楽寺村郷蔵
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▲茶室
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▲築山(復元)
▲大溝