花沢城跡
はなざわじょうあと (Hanazawa Castle Ruins)
【C-SZ071】探訪日:2022/2/27
静岡県焼津市高崎字城山
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、1536(天文5)年の花倉の乱で実権を握った今川義元が翌年に西の守りとして築いた城と推測される。初代城主は関口氏録という。
1568(永禄11)年、甲斐の武田信玄は、桶狭間の戦いで義元が討たれ勢いを失った今川領国に侵攻を開始し、1570(永禄13)年正月、大原資良(小原鎮実と同一人物とされる)らの立て籠もる花沢城を攻撃した。信玄は城を見下ろす高草山中腹に布陣し、武田勝頼,武田信廉,長坂長閑らが攻め入った。城兵は奮戦したが14日目に降参し開城、大原資良は遠江の高天神城の小笠原長忠を頼り退去した。しかし、資良(鎮実)は過去に三河で徳川家康に内通した国人達を串刺しにし宇津山城を拠点として反今川方の国人衆を攻めた人物であり、小笠原長忠は入城を断ったため資良は自害したと伝わる。花沢城はこの戦いによって廃城になったと考えられる。
信玄は、同年さらに長谷川正長が守る徳一色城(のちの田中城)を落とし、志太平野を掌握したが、ほぼ1年後には死去する。
花沢城は、高草山から南東に突出した標高150m,比高100mの独立丘陵上に立地し、城域は南北約450m,東西約240m。山頂部に一の曲輪(幅29m×長さ65m)と二ノ曲輪(幅28m×長さ66m)を配置し、周囲の尾根に沿って腰曲輪や堀切を複数設けている。南端には出丸(八の曲輪)がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1536年・1570年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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今川義元 | G361 | 関口氏録 | G364 | 大原資良(小原鎮実) | **** |
武田勝頼 | G433 | 武田信廉 | G431 | 長坂長閑 | **** |
小笠原長忠 | G452 |
規模,遺構,歴史といい指定史跡となってもおかしくないほどの城跡だと感じた。縄張図を参考に、一の曲輪から九の曲輪まですべてを探索したが、四の曲輪については明確に把握することができなかった。また、七の曲輪も位置的には間違いないが雑木林と背の高い枯草で遺構などはよくわからない(狭いのは確かだが)。一の曲輪,二の曲輪,三の曲輪,六の曲輪,八の曲輪についてはハイキング,散策としても最適なコースかもしれない。一の曲輪には桜が咲いていた。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲城跡への入り口
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▲登城口
▲一の曲輪近く
▲一の曲輪
▲一の曲輪
▲一の曲輪
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▲一の曲輪の南東(二の曲輪)側
▲一の曲輪の北西(三の曲輪)側
▲一の曲輪からの西側眺望
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▲一の曲輪と三の曲輪の間の堀切
▲三の曲輪側から堀切を見る
▲三の曲輪
▲三の曲輪
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▲四の曲輪?
▲一の曲輪と二の曲輪の間の堀切
▲堀切から二の曲輪へ
▲二の曲輪
▲二の曲輪
▲二の曲輪
▲二の曲輪(六の曲輪方向)
▲二の曲輪下の五の曲輪
▲五の曲輪
▲五の曲輪
▲二の曲輪へ戻り六の曲輪へ向かう
▲六の曲輪
▲六の曲輪
▲六の曲輪
▲六の曲輪
▲六の曲輪からの眺望
▲六の曲輪から見た八の曲輪
▲一旦、遊歩道入口へ
▲遊歩道を南下し七,八の曲輪へ
▲七の曲輪と思われる
▲七の曲輪と思われる
▲出曲輪(八の曲輪)登り口
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▲八の曲輪虎口
▲八の曲輪
▲八の曲輪
▲八の曲輪
▲八の曲輪
▲八の曲輪
▲九の曲輪
▲九の曲輪