菰野城(菰野陣屋)跡
こものじょう(このもじんや)あと(Komono Castle [Komono Jinya] Ruins)
【C-ME134】探訪日:2024/10.22
三重県三重郡菰野町菰野1474
【MAP】
〔駐車場所〕菰野地区コミュニティ センターの駐車場を利用させていただく。
1568(永禄11)年、滝川一益は北伊勢攻略や長島一向一揆討伐の功により織田信長から北伊勢五郡を与えられ、一益は三重郡の代官として家臣の南川治郎左衛門を菰野に配した。これが菰野城の始まりとされる。
1583(天正11)年には、賤ケ岳の戦いで一益は柴田勝家方に付き、羽柴秀吉によって追放される。北伊勢は織田信雄の所領となり、菰野の地は信雄家臣の土方雄久に与えられた。この時期には見性寺の地に城を構えていた(力尾城跡)。その後、雄久は1587(天正15)年には犬山城に、さらに能登10,000石へと移った。
1599(慶長4)年、徳川家康暗殺計画に関与していたとして土方雄久・雄氏父子は常陸国太田の佐竹義宣預かりの身となる。しかし、翌年の関ヶ原の戦い直前に蟄居を許され、家康の命を受けて従兄弟の前田利長の出陣を思い止まらせることに成功した。この功により、雄久は能登の旧領に復帰し、子の雄氏は菰野と近江に12,000石を拝領して父子共に大名となった。
土方雄氏は菰野藩を立藩して、入部当初は滝川代官所跡を修補して仮藩庁を設け、藩主は京都に住んだが、寛永年間(1624~43年)、2代・雄高の代に同所に藩邸を建て、藩士の屋敷も設けて城郭の構えを整えた。以降、菰野城は初代の土方雄氏から1869(明治2)年の12代・雄永の廃藩に至るまでの約270年間、藩主の転封もなく土方氏の居城であった。また、菰野藩は江戸時代を通して一揆が起こらなかった藩でもある。
現在は菰野小学校の敷地になっており、西側と北側に城壕の一部と築地が残り、藩邸庭園跡とされる西南隅には城址碑が建てられている。西南を流れる振子川に面して角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られる。1873(明治6)年の廃城時に移築された門が、朝上小島の金蔵寺に残る。
また、逸話として以下が伝えられている。
土方雄氏は立藩の際、かつて織田信雄と父・雄久との間で約されていた信雄の娘・八重姫との婚儀が挙げられることになった。しかし信雄から、堀もないような城の主には娘はやれないと言われ、雄氏は昼夜兼行二日がかりで幅6mの堀をめぐらして体裁を整え、めでたく八重姫を迎え入れたという。さらに、1868(慶応4)年、12代藩主・雄永のときにも妻となる益子姫(竹屋光有卿の娘)を迎えるために領民の協力を得て急遽、城の堀と二層の角櫓の築造工事を行ったという。