力尾城跡

ちからおじょうあと(Chikarao Castle Ruins)

【C-ME135】探訪日:2024/10.22・12.3

【C-ME135】力尾城跡 三重県三重郡菰野町菰野

【MAP】

〔駐車場所〕見性寺の駐車場を利用させていただく。

【C-ME135】力尾城跡

   1583(天正11)年に織田信雄の家臣であった土方雄久によって築かれた城である。この年、滝川一益が羽柴秀吉に敗れた後、北伊勢は織田信雄の領地となり、信雄に仕えていた雄久に与えられた。その後、1587(天正15)年の犬山城への転封まで雄久の居城として使われた(当時は菰野城と呼ばれていた)。
 1600(慶長5)年、雄久の子・雄氏が徳川家康より菰野12,000石を与えられると、その子・土方雄高は、寛永年間(1624~44年)、ここから北東方向の滝川代官所跡に藩邸(菰野陣屋)を建て、藩士の屋敷も設けて東町を開き、城郭の構えを整えた(菰野城)。この地は藩士の屋敷を設けるのには狭かったようである。雄高は丘陵北麓に土方氏の菩提寺である見性寺を建立した。
 菰野藩歴代藩主の墓所を経由した丘陵上には曲輪状の削平地が存在する。削平地には国道306号線バイパス工事に先がけて実施された1998~99(平成10~11)年の発掘調査では、空堀や土塁などが検出されたが、その後、工事により破壊されたり、埋め戻されたりしている。現在、新四国八十八ヶ所霊場巡りの参道と石仏群が散在している。
 主要な曲輪としては、丘陵最高部の主郭と、その東の切岸で見下ろす2郭,3郭である。この2つの郭は1ⅿほどの段差で連続し城域で最も広い区画となる。このほかにも周囲に小規模な曲輪が複数存在する。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1583年・1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
土方雄久 G169

 

【C-ME135】力尾城跡
 

 

【C-ME135】力尾城跡

 

力尾城縄張図(『力尾城跡発掘調査報告 2001.3 三重県埋蔵文化財センター』に加筆)

【C-ME135】力尾城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

階段の先を左へ上る(右は菰野藩主墓所) 右へ進む(左は八重姫墓所) 墓所から登ったところの虎口 虎口の土塁(この先が1郭) 1郭 1郭 1郭の切岸(3郭から見る) 虎口の堀跡(土塁の反対側) 3郭 3郭 3郭 2郭 2郭 2郭 2郭 2郭 2郭の土塁跡 堀跡 登り口の堀跡を東側から見る 4郭 4郭の堀切 4郭 北側に微高地がある(見張台?) 微高地(見張台?) 北から南方向を見る 堀切