道目記城跡
どうめきじょうあと (Domeki Castle Ruins)
【C-AC248】探訪日:2019/4/20
愛知県新城市杉山道目記
【MAP】
〔駐車場所〕
古くは弘安年間(1278~1287年)に近江国甲賀郡塩瀬里から来た塩瀬資時が屋敷を構えたことに始まる。1445(文安2)年に塩瀬一族が下々村(新城市八束穂)へ移ることで、この屋敷は廃墟となった。
1570(元亀元)年、田峯城主の菅沼定忠が伯父である杉山端城城代の菅沼定氏に命じて、屋敷跡を修理し築城させたとされる。なお、築城時期については1560(永禄3)年とする説(『南設楽郡誌』)もあり、確定されてはいない。
1571(元亀2)年、田峯菅沼宗家は武田方に降ったが、定氏の兄の長男で菅沼定忠の養子となった菅沼定利は田峯城を去り、野田城主の菅沼定盈に拠って定氏とともに徳川方に属してこの城に入城している。しかし、1573(元亀4)年に武田信玄が野田城を攻撃する際には、この城に武田の本営が置かれ、杉山端城ともに野田城に開城を迫っている(信玄に死去により野田城は再び菅沼定盈のもとに帰属)。
1575(天正3)年の長篠の戦いでは、徳川方として参戦した。1582(天正10)年、田峯菅沼の家督相続した定利に代わり花房氏が入城したが、1590(天正18)年に至って飯田へ転封となったことで、この城は廃城となった。
城郭規模は、100×100mの不整形な五角形を呈する範囲と推定されている。現在は、千郷中学校用地と横浜ゴム社員寮となっており、中学校運動場の西側脇にわずかに土塁が残るのみであるが、学校用地の拡幅工事の際には空堀が確認されている。
なお、この城名は、城地の西側を流れる川(道目記川)の轟くような流れに由来しているとも言われている。