畔田城跡
くろだじょうあと(Kuroda Castle Ruins)
【C-AC560】探訪日:2023/2.27・3.7
愛知県豊橋市城下町恵下
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、1461(寛正2)年以前に畔田氏によって築かれ、畔田遠江守と弟の修理亮が居住したとされる。1475(文明7)年には、この地域に勢いを伸ばしてきた戸田宗光の支配下に入った。畔田氏は、畔田城を本城として草間城,雉子山城,中瀬古館,上地城に一族を配して勢力を張っていたという。
その後、東三河は戸田氏,牧野氏,今川氏に西からの松平氏が加わり、複雑に勢力争いが繰り広げられていく。天文・弘治(1532~58年)の頃には、畔田氏は今川氏に属していたが、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、今川氏の影響力が東三河から失われると、畔田氏は1564(永禄7)年頃に遠江平川郷に落ちていったという。
城は渥美半島の遠州灘に面した標高67m,比高65mの台地上に築かれ、現在は曲輪,空堀,土橋,土塁が残されている。主郭は南の高所で三角形に近い形状をしている。北側に小さな祠があり、その背後は少し盛られているが、土塁なのかどうかは不明。また、雑木林の向こうに海を見ることができる。主郭の北側には空堀が巡らされており、土橋が掛かる。北に向かっていくつかの曲輪が連なり、それぞれに土塁が確認できる。外側の平坦地は家臣の屋敷跡とされる。ただ、遺構は太平洋戦争末期に本土決戦に備えた陣地として大きく改変されており、空堀形状も原形とは異なるという。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 |
室町時代 |
戦国時代 |
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関連年号 |
1461年・1475年 |
1560年・1564年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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畔田遠江守 | **** | 畔田修理亮 | **** |
畔田城縄張図(現地説明板に加筆)