知久平城跡
ちくだいらじょうあと
(Chikudaira Castle Ruins)
【C-NN006】 探訪日:2017/9/15
長野県飯田市下久堅知久平
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、当初上之平城を居城としていた知久信貞が、承久の変の軍功により伴野庄知久平の地頭となり、この地に築城したのが始まりとされる。知久平城は天竜川東岸の河岸段丘の西端に築かれており、縄張は北から南へ出丸,本丸,二の丸,三の丸と続き南端には馬出があったという。現在は宅地や畑となっており、出丸部分とその近くにある殿様井戸,本丸と二の丸の間の空堀,三の丸の土塁などわずかな遺構を残すのみとなっている。
知久氏は室町時代に神之峰城(1533年に初めて史料に登場)を築いて居城とし、知久平城はその出城となった。
1542(天文11)年、武田軍によって出自の諏訪氏は滅ぼされたが、知久氏は武田信玄に従い、1546(天文15)年、知久頼元は飯田城の坂西伊予守と戦って版図を拡大。さらに、上野の座光寺氏も配下に加えるなど知久氏の最盛期を築き上げた。
しかし、1553(天文22)年の第一次川中島合戦までは武田氏に従ったが、神之峰城に戻ると反武田の兵を挙げ、高遠城主の秋山信友の説得にも応じなかったため、翌1554(天文23)年に知久頼元や座光寺貞信らは生け捕りにされて甲斐で処刑された。このとき頼元の子の頼氏,頼純は逃れ、徳川家康に仕えた。
1582(天正10)年、織田徳川連合軍により武田勝頼が滅ぼされると、徳川家康の家臣で三河田峯城主菅沼氏の一族である菅沼定利が知久平城の城主となり、知久頼氏も知久平69ヶ村6千貫の所領を与えられ、領主としての知久氏が復興した。しかし、1585(天正13)年に知久頼氏は自害を命じられている(理由は不明)。
1588(天正16)年、菅沼定利は居城を飯田城に移して知久平城を廃城とした。知久平城は飯田城の改修資材として利用された。その菅沼定利も1590(天正18)年に徳川家康が関東に移された際に、上野国吉井に移った。なお、知久氏は頼氏の子の則直が関ヶ原の戦いの後に3千石で召し出され、旗本として阿島陣屋を構えて再興している。