伊保西古城跡

いぼにしこじょうあと (Ibo Nishi Old Castle Ruins)

【C-AC034】探訪日:2005/1/8・2021/8/11

【C-AC034】伊保西古城跡 愛知県豊田市保見町西古城

【MAP】

〔駐車場所〕

   1497(明応6)年、三宅児島太郎善次、その子・重次,家次が当地へ移住したことに始まるという。やがて、松平氏が侵攻し三宅氏は広瀬へ退くことになる。1530(亨禄3)年、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌年、清康は伊保城を攻めて城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走した。1533(天文2)年、三宅右衛門大夫高貞は近隣の中条,鈴木,阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。そして、1558(永禄9)年、三宅康貞は松平元康に降り、以後、松平氏の家臣となり、子孫は江戸時代には挙母藩主,伊勢亀山藩主を務めた後、田原藩主として幕末まで存続した。1562(永禄5)年に松平氏と織田氏の同盟(清州同盟)が結ばれるときには、伊保西古城は織田領となり佐久間信盛の居城となった。
 1591(天正19)年には岡崎城主・原隠岐守の支配地として検地が行われており、この頃にはすでに城の役目を終えていたとみられ、廃城になったとされる。
 標高116m,比高20mの丘陵上の主郭は南に虎口をもち南北に大きく広がっており(広さ約1800㎡)、その東西側に腰曲輪、南側下には南側に続く丘陵と分断する堀切が確認できる。
 なお、保見には、この城の東方200mにある伊保城、500m東方の伊保東古城、貝津町にある伊保古城と、「伊保」と名のつく城が全部で4つある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1497年・1530年・1531年・1533年・1558年・1562年 1591年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
三宅善次 MY02 三宅重次 MY02 三宅家次 MY02
三宅政盛 MY02 三宅清貞 MY02 三宅高貞 MY02
三宅正貞 MY02 松平元康 TG01 佐久間信盛 H504
原隠岐守 ****

 

【C-AC034】伊保西古城跡
 登城口へのルートは南北に2ヶ所あった。登城口は個人宅の庭の奥にあり案内板が立っている。「えっ、ここから」と思いつつ奥へ進むと、整備された木段が続き虎口へ到着。虎口の先にはかなりの広さをもつ主郭がベンチも備えた公園になっている。民家奥の登城口と主郭(公園)のイメージギャップが大きい。ほかにも登城口があるのかな。

 

【C-AC034】伊保西古城跡

 

  

【C-AC034】伊保西古城跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

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▲南側からの登城口

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▲民家の横に登り口

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▲虎口

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▲虎口(主郭から見る)

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▲虎口から見た主郭

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▲主郭

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▲主郭

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▲主郭

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▲主郭

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▲堀切

【C-AC034】伊保西古城跡

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▲堀から主郭を見る

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▲北側からの登城口(右側)

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▲東にある秋葉社

【C-AC034】伊保西古城跡

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▲虎口(2005年1月撮影)

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▲主郭(2005年1月撮影)