高知城跡

こうちじょうあと(Kochi Castle Ruins)

【C-KC001】探訪日:2019/7.21

  高知県高知市丸ノ内1丁目2-1

【MAP】

〔駐車場所〕

   高知城の前身は南北朝時代に付近の豪族の大高坂氏によって築かれた大高坂山城(または大高坂城)であったとされる。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られ、南朝方として後醍醐天皇第7子の満良親王を迎えたが、北朝方に敗北し大高坂山城は落城した。
 1587(天正15)年、長宗我部元親が豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた(なお、1585年に既に大高坂を本拠にしていたとする説もある)。
 現在見られる城は、関ヶ原の戦いにおいて長宗我部盛親が西軍に与して改易された後、土佐藩初代藩主の山内一豊によって着工され、2代・忠義の時代に完成した。3層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城と名付けられたが、度重なる水害を被ったことから忠義の時代に高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。1727(享保12)年に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失したが、そののち再建され(天守は1747年再建)、1873(明治6)年の廃城令や太平洋戦争による戦災を免れ、当時の天守,御殿,追手門など15棟の建造物がそのまま現存する唯一の城として知られている。城内には一豊と妻の千代(見性院),板垣退助の銅像が立つ。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1959年6月18日)
【国 宝】 
【国重文】天守・懐徳館・納戸蔵・黒鉄門・西多聞・東多聞
     詰門・廊下門・追手門・天守東南矢狭間塀
     天守西北矢狭間塀・黒鉄門西北矢狭間塀
     黒鉄門東南矢狭間塀・追手門西南矢狭間塀

     追手門東北矢狭間塀     以上15棟                 

関連時代 南北朝時代 戦国時代 江戸時代:前期 江戸時代:中期 明治時代
関連年号 1338年 1587年 1603年 1727年 1873年

 

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大高坂松王丸 **** 満良親王 K601 長宗我部元親 HT08
山内一豊 F944 山内忠義 F944

 


 探訪日前日は雨、当日も天気予報は曇りのち雨とのことで、雨が降り出す前にと旅館の朝食前(6:30頃)に訪れた。当然、天守や本丸御殿は開館していないため外観のみの見学であったが、その重厚な存在感には圧倒されるものがあった。一豊が前任地の掛川城を模して天守を造ったとされるが、確かに上2層がそっくりである(下記参照)。また、時間の都合で西エリア(西ノ丸,搦手門など)を見ることができなかったこと、やはり天守,本丸御殿に入れなかったことは心残りであり、再度探訪の機会を設けたい。

 

 
       

                       ※城内俯瞰マップは高知城公式ホームページより引用

 

高知城は現存天守をもつ12城の一つである。

<現存天守12城(★は国宝天守)>

弘前城 ★松本城 丸岡城 犬山城
彦根城 ★姫路城 ★松江城 備中松山城
丸亀城 松山城 宇和島城 高知城

 

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山内一豊の銅像 「山内一豊の銅像」説明板 追手門へ向かう 追手門 板垣退助の銅像 板垣退助の銅像 石樋 石樋 山内一豊の妻の銅像 杉の段からの三ノ丸石垣 愛妻の碑 三ノ丸からの天守 鉄門跡 鉄門跡 三ノ丸跡へ 三ノ丸跡 三ノ丸跡 二ノ丸へ 二ノ丸跡 二ノ丸の幕山と池 二ノ丸の幕山と池 二ノ丸跡 二ノ丸跡 二ノ丸跡からの天守 詰門 御馬場跡