多羅城跡
たらじょうあと (Tara Castle Ruins)
【C-GF046】探訪日:2020/1/13
岐阜県大垣市上石津町宮829
【MAP】
〔駐車場所〕入口柵近くの駐車スペースがある。
2019(平成31)年2月の史跡調査にて城跡と判明したばかりで詳細は不明であるが、進士信周の居城と考えられる。多羅城については大垣市上石津多良地区においても、宮の西高木家陣屋跡,羽ケ原の城ケ平,上多良の城屋敷,松ノ木の城山など複数の候補地があるが、ここは城ヶ平にあたる。また、信周の妻は明智城城主・明智光綱の妹であり、自分の次男を光綱の養子とし、それが明智光秀であるという史料も残されている(明智一族宮城家相伝系図書[東京大学史料編纂所])。本説によれば、多羅城が明智光秀生誕の地となる。
城跡は東に枡形虎口と櫓台を設け、小規模ながら横堀,竪堀も残る。主郭は正方形に近く、周囲には土塁跡が巡らされ、井戸跡と思われる窪みがいくつか残る。周辺の曲輪については、今後の調査を待つことになるだろうが、それらしき空間はいくつか見ることができた。
一方、関ケ原の戦い以前に関一政が多羅城を築いたともされている(城ヶ平かは不明)。1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、関一政は伊勢国亀山に移封となり、代わって高木貞利がこの地に転封され旗本となっている。