明智城跡
あけちじょうあと (Akechi Castle Ruins)
【C-GF006】探訪日:1990/8/12・2019/9/30
岐阜県可児市瀬田長山
【MAP】
〔駐車場所〕
1342(康永元)年、土岐明智二郎頼兼により築城され、約200年の間、明智氏代々の居城として栄えた。別名、長山城または明智長山城とも呼ばれている。
1556(弘治2)年9月19日、稲葉山城主の斎藤義龍軍の攻撃を受ける。明智城代明智光安は弟光久と一族の溝尾庄左衛門,三宅弐部之助,藤田藤次郎,肥田玄蕃,池田織部,可児才右衛門,森勘解由ら870余人を集めて籠城したが、義龍軍3700余の軍勢による2日間にわたる攻撃で、光安は光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃し、妻妾も落城前に自刃したという。一説では、斎藤道三の死後により政略結婚の意味がなくなり、織田信長によって美濃の母方の実家である明智城に返された22歳の濃姫もこの時明智一族と運命を共にしたとの推察がある。城は落城後は再興されることはなかった。なお、明智光秀の出生地はここ可児市瀬田長山の明智城のほか、恵那市の明知城、大垣市上石津の多羅城などが候補地として挙げられ、確定できていない。
東西に長く延びた丘陵に築かれ、張り出した尾根や谷などの自然地形を生かした典型的な中世の山城で、本丸跡や曲輪,馬場,土塁などの遺構が残る。 北側に大手門があり、大手道(桔梗坂)は二の丸曲輪へと続く。
城址北麓にある天龍寺には、日本一大きな明智光秀の位牌と明智氏歴代墓所がある。また、光秀とその一族の墓所は近江坂本城跡に近い西教寺にもある。
【史跡規模】 |
【指 定】可児市指定史跡 |
関連時代 | 南北朝時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1342年 | 1556年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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明智頼兼 | G133 | 斎藤義龍 | F846 | 明智光安 | G142 |
明智光久 | G142 | 溝尾庄左衛門 | F*** | 三宅弐部之助 | **** |
藤田藤次郎 | **** | 肥田玄蕃 | **** | 池田織部 | **** |
可児才右衛門 | **** | 森勘解由 | **** | 明智光秀 | G142 |
濃姫 | F846 |
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▲案内板
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▲大手口
▲大手門
▲大手道(桔梗坂)
▲二の丸跡
▲二の丸跡
▲七ツ塚
▲七ツ塚
▲七ツ塚
▲馬場跡
▲馬防柵
▲馬防柵
▲本丸跡
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▲城址碑
▲本丸跡
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▲見晴台からの眺望
▲見晴台からの眺望
▲西出丸跡
▲西出丸跡
▲搦手曲輪跡
▲搦手曲輪跡