津城跡
つじょうあと (Tsu Castle Ruins)
【C-ME012】探訪日:1990/8/25・2020/9/30
三重県津市丸之内33-5
【MAP】
〔駐車場所〕
永禄年間(1558~69年)、長野氏一族の細野藤光が安濃,岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。両河川は天然の大外堀であった。
1568(永禄11)年、織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城し、翌年には織田信包が入城した。信包は滝川一益の縄張りに基づき城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸,二の丸,三の丸を整備した。1577(天正5)年には5重天守と小天守が落成している。
1594(文禄3)年、信包は豊臣秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌年7月、豊臣家家臣の富田一白が入城。一白の子・信高は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで東軍につき、援軍の分部光嘉と1,300人で西軍方の毛利秀元,長宗我部盛親軍3万の軍勢を迎え撃ったが、天守含め城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食応其の調停により開城となったが、戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた。天守は富田氏によって再建されたが、1662(寛文2)年の火災での焼失以降、再建されることはなかった。
1608(慶長13)年、富田信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢,伊賀22万石をもって入城する。高虎は近代城郭として大改修に着手する。中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸,西丸をつけ、本丸,東丸,西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の城郭に変貌させ、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
1871(明治4)年、廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却され、外堀も埋め立てられた。現在は「お城公園」として整備され、その他の城址には津市役所や裁判所,津警察署などが建ち並んでいる。丑寅櫓(場所も形も全く異なるが)は、1958(昭和33)年に復元されたものである。
【史跡規模】 |
【指 定】三重県指定史跡(2005年3月17日指定) |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
---|---|---|---|
関連年号 | 1558~69年・1568年・1569年 | 1594年・1600年 | 1608年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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細野藤光 | F039 | 津田一安 | OD** | 織田信包 | OD03 |
滝川一益 | KI43 | 富田一白 | **** | 富田信高 | **** |
毛利秀元 | OE16 | 長宗我部盛親 | HT08 | 木食応其 | **** |
藤堂高虎 | F794 |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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