金井城跡
かないじょうあと(Kanai Castle Ruins)
【C-ME114】探訪日:2024/9.6
三重県いなべ市員弁町西方450
【MAP】
〔駐車場所〕登城口に駐車場がある(少し狭いですが)。
築城年は定かではないが、1505(永正2)年頃に六角高成の孫にあたる種村大蔵大夫高盛によって築かれたとされる。
1522(大永2)年、美濃国の土岐大膳大夫道誉が北伊勢に侵攻し金井城を攻めたとき、大木氏,多湖氏ら周辺の諸豪族は連合してこれに立ち向かい平古野で土岐軍を撃ち敗り、土岐道誉は自刃して果てた。さらに、1532(天文元)年には道誉の子・土岐掃部助が弔い合戦として再び金井城へ攻め寄せたが、この時も周辺の諸豪族が連合して戦い、土岐掃部助を討ち取った。しかし、1568(永禄11)年、織田信長の北伊勢侵攻には屈服せざるを得なかった。
1572(元亀3)年に種村高盛は没し、4男・弾正左衛門秀政、さらにその長子・千代次秀信が家督を継いだ。1576(天正4)年、秀信は北伊勢を支配下に置いていた滝川一益に不審を抱かれ、長島城へ出頭するよう命ぜられ、その場で切腹を申付けられた。金井城の一族は城に火をかけ離散したと伝えられている(金井城廃城)。また、このとき同じく長島城出頭を命じられていた大木城主の大木舎人助も秀信謀殺の報を聞き、城を放棄して西国へと逃れたという。
城は員弁川の東の河岸丘陵に築かれ、西に2郭,3郭、北に北郭があったが、現在は主郭の遺構が良好に残っている。規模は南北約120m,東西約60mを測る。北西側を幅約20m,深さ約8mの空堀で遮断し、空堀に架けられた土橋の先に虎口が開く。虎口はもう一つ西側にも開いている。主郭は四囲に土塁が廻らされ、その四隅に横矢掛かりの張り出しが設けられている。