滝堺城跡
たきさかいじょうあと (Takisakai Castle Ruins)
【C-SZ080】探訪日:2022/3/12
静岡県牧之原市片浜字法京
【MAP】
〔駐車場所〕
1571(元亀2)年、武田信玄が馬場信春に命じて築いた連郭式山城である。信玄は北条氏から徳川氏へ矛先を向け、大井川を渡って1570(元亀元)年に小山城を築いた後、海岸沿いに南下して滝境城を築いた。滝堺古城を修築する予定だったが、狭小であったために滝堺古城の北方1Kmほどの標高70m,比高60mの丘陵上に新城を築いたという。「高天神を制する者は遠州を制す」といわれた高天神城攻略に向けての布石である。
1574(天正2)年6月、武田勝頼は信玄が果たせなかった高天神城攻略を成し遂げるが、その際には滝堺城は後方基地としての役割を担った。しかし、勝頼が1575(天正3)年の長篠の戦いで大敗した後、1581(天正9)年3月には高天神城も徳川勢に奪い返され、翌1582(天正10)年には滝堺城も徳川氏の手に落ちた。家康が駿遠二州を制圧した後は、廃城となり再び使われることはなかった。
城は南東に張り出した尾根先に位置し、南東の端が本丸で北西に向かって二の丸,三の丸と並び、それぞれの曲輪の間には空堀が設けられ土橋でつながる。その規模は三の丸が東西70m×南北100m、二の丸が東西70m×南北90m、本丸が東西46.5m×南北102mと広大で、曲輪の東西は断崖絶壁に近い。本丸には僅かに低土塁が残されている。また、本丸の空堀から東へ降りる山道が"城山坂"と呼ばれる大手道となっている。各曲輪は現在、全面が茶畑となっており、本丸南端からは駿河湾を望むことができる。
【史跡規模】 |
【指 定】牧之原市指定史跡(1966年9月20日指定) |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1571年・1574年・1582年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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武田信玄 | G433 | 馬場信春 | G1** | 武田勝頼 | G433 |
徳川家康 | TG01 |
下記の縄張図では南東の曲輪を本丸としているが、三の丸を本丸、本丸を三の丸とする縄張図もある(例えば『静岡県古城めぐり』)。曲輪の広さは実際の城跡と縄張図とはイメージが合わない(航空写真でもわかるように二の丸が三の丸に比べてかなり広い)。下図を正とするならば、広さ,大手口の位置からみて三の丸が本丸といった方が理に適っているのかもしれない。いずれの曲輪も現在は全面茶畑となっており、城跡の雰囲気はあまり感じられなかった。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲城跡への入り口
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▲左の道を進む
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▲城山坂と思われる(こちらへは進まない)
▲もうすぐ説明板
▲振り返る
▲曲輪下は断崖絶壁
▲三の丸入口
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▲堀
▲堀
▲堀
▲三の丸(一面茶畑)
▲三の丸
▲三の丸と二の丸の間の土橋(馬出)
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▲二の丸(ここも茶畑)
▲二の丸
▲二の丸と本丸の間の土橋
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▲本丸(さらに茶畑)
▲本丸
▲本丸
▲本丸からの眺望
▲本丸の南東端
▲駿河湾を望む