坂崎城跡(天野康景邸跡)
さかざきじょうあと(あまのやすかげていあと) (Sakazaki Castle Ruins[Amano Yasukage's Residence Ruins])
【C-AC082】探訪日:2014/9/14・2021/4/11
愛知県額田郡幸田町坂崎平蔵脇
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、戦国時代に天野遠房が遠江国から三河国坂崎へ移り城を築いたとされる。天野氏は伊豆国天野郷の発祥であるが、南北朝時代になると遠江国の犬居城を本拠として勢力を伸ばした。しかし、家中は南朝方と北朝方に別れて争うことになり、天野氏の一部が三河国坂崎へ来住した。天野遠房は松平清康に、子の景隆は松平広忠,元康親子に、景隆の子・天野康景も1537(天文6)年にここで生まれ、幼い頃からの元康(家康)に仕えた。元康の駿府人質時代も行動を共にしている。
1563(永禄6)年からの三河一向一揆の際にも天野一族の中から一揆方に付く者がいる中で、康景は改宗して家康に付いて功を挙げた。1565(永禄8)年には本多重次,高力清長と共に三河三奉行とされ、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と称されたように、慎重でそつが無い人物だったようである。その後も三方ヶ原の戦いや姉川の戦いで戦功を挙げている。
1590(天正18)年、徳川家康の関東移封に伴い、康景も下総国内で3,000石を与えられ、同時に江戸町奉行に任じられた。この時期に坂崎城は廃城となったと考えられる。
その後、康景は1601(慶長6)年には1万石を与えられて興国寺藩主となったが、1607(慶長11)年に起きた康景の貯えた竹木の窃取事件がもとで、翌年、城地を放棄して子の康宗ら一族と共に出奔したために改易に処せられた。小田原の西念寺に入り、1613(慶長18)年2月24日に同地で死去している。享年77。
現在の神明社から西側一帯が坂崎城跡と伝えられている。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1537年・1563年 |
1590年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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天野遠房 | F015 | 天野景隆 | F015 | 天野康景 | F018 |
松平元康 | TG01 | 本多重次 | F510 | 高力清長 | H188 |
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▲土塁跡?
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▲城跡の西側
▲城跡の北側
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▲切岸状になっている
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▲遠景