姫小川城跡
ひめおがわじょうあと (Himeogawa Castle Ruins)
【C-AC344】探訪日:2020/11/13
愛知県安城市東町屋敷62
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、内藤清長によって築かれた。清長の父・内藤義清は上野下村城主として松平信忠,清康に仕え、1525(大永5)年には三河へ侵攻してきた織田信秀の軍を迎撃した。1529(享禄2)年には松平清康に従い、吉田城,宇利城攻めなどにも戦功を挙げ、岡崎五人衆の一人として松平家を支えていたが、1536(天文5)年の織田信秀の軍との戦いで負傷し、その傷が元で翌年に死去している。
義清の嫡子である清長は引き続き上野城に在城し、1542(天文11)年に織田信秀の軍が攻め寄せてきた際には、これを迎撃して数十人を討ち取ったと言われている。その後、清長はこの地に移されて姫小川城(姫城ともいう)を築いたが、1563(永禄6)年の三河一向一揆で一揆方に加担し松平家と敵対し、一揆方が敗れると荻城へと蟄居した。ただ、清長の子・家長は一揆方に与せず、家康に従って鎮圧に尽力し信頼を得た。
1590(天正18)年、徳川家康の関東移封に伴い、家長は上総国佐貫二万石を領し、義理兄の内藤信成もまた伊豆国韮山二万石を領して姫城は廃城となった。
姫小川城は、内藤氏の菩提寺である誓願寺の北東にあったといわれ、明治中期の地籍図から方形の城址が認められ、1888(明治21)年頃には北を除く三方に土塁が残っていたとされるが、現在は宅地となり遺構は残っていない。