須佐城跡B
すさじょうあとB(Susa Castle Ruins B)
【C-AC678】探訪日:2024/1.29
愛知県知多郡南知多町豊浜鵞麦
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、平安時代後期には須佐為基の居城であったとされる。治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、源氏方に付いた須佐為基は、篠島城主の室賀秋季と共に源頼朝へと情報を流していた。のちに頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府を開くと、この功績により須佐の地を所領として与えられたという。
永正年間(1504~20年)には、志摩国千賀浦から千賀氏が海を渡り知多半島に移ってきて、須佐城を手中に収めた。そして、長面寺を再興し正衆寺と改号して、千賀氏の菩提寺とした。その後、1542(天文11)年頃、千賀重親が大野城主・佐治氏の陣代として幡豆崎城へと移った際に須佐城は廃城となったとされる。
千賀氏家老・川合氏の記録では須佐城は正衆寺の東方、江戸時代の村絵図では正衆寺の背後の山と谷を隔てた東南とされ、候補地として須佐城跡A(字会下坪・鵞麦)と須佐城跡B(字鵞麦・孫松)が比定されており、特定できていないのが現状である。
須佐城跡Bは須佐城跡Aの東南の丘陵端(標高78m,比高75m)とされ、正衆寺からは谷を隔てた山頂となる。登り口はわかりやすいが、途中からは直登に近い。須佐城跡A同様、畑地として利用されていたが、現在は荒地,雑木林となっている。山頂の平坦地(主郭とした)は東西約25m,南北約70mで中ほど東に井戸跡と思われるくぼみがみられる。主郭の西,北,東には主郭を連続的に取り巻くように幅10mほどの帯曲輪がついている。また、主郭の南側は一段低い曲輪とも堀切ともとれる平坦部がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1180~1185年 | 1504~20年・1542年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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須佐為基 | **** | 千賀重親 | **** | 佐 |
須佐城の位置は特定されていないが実際に訪れてみると、私見ではあるが、帯曲輪や堀切(Ⅲ郭より堀切に近いと思う)を備え、井戸跡の存在などから城跡Aよりも須佐城跡Bのほうが城館らしさを感じた。いずれにせよ、半島がゆえに耕作地が少ないこともあり、城跡も記録に残されることなく早い段階で畑地に開墾されたため、縄張り、位置さえもわからなくなってしまったのは残念である。
須佐城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)