六名城跡
むつなじょうあと(Mutsuna Castle Ruins)
【C-AC643】探訪日:2023/8.18
愛知県岡崎市六名1丁目8-8
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、戦国時代の築城と考えられ、城主には鳥居四郎左衛門忠広,成瀬藤蔵正義,蜂谷半之丞貞次,安藤帯刀直次の名が伝わる。
鳥居忠広の祖先は鎌倉時代に紀州熊野を追われ、三河国矢作庄に移住して渡城を築いた。矢作川を挟んでちょうど西側に位置する。忠広の時代に東への領地を拡大したものと思われる。忠広は徳川十六神将の一人に数えられるが、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いで戦死した。
成瀬氏は松平親氏の時代から松平宗家に仕え、松平信光に従って岩津へと移り住むと、影山城,木戸城を築き、成瀬国平のとき松平親忠,長親に仕えて六名に住んだとされる。国平の曽孫にあたる成瀬正義は1562(永禄5)年に同僚を斬捨て出奔したが、翌年に三河一向一揆が始まると徳川家康の元に帰参し、鎮圧に参加している。その後も六名城主として家康に仕えたが、鳥居忠広と同じく三方ヶ原の戦いで旗奉行として奮戦し、家康の身代わりに戦死した(成瀬正義墓所)。
蜂谷貞次は六名城で生まれ、徳川十六神将の一人に数えられる。三河一向一揆では一揆方に加わり家康に反したが、許されて帰参した。1564(永禄7)年の吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争い、河井正徳の鉄砲の弾が当たって負傷しそれがもとで六名で亡くなった。享年26。
安藤氏の居城は桑子城であり、時期は不明だがに安藤直次が六名城へ移った。直次は幼少期から徳川家康に仕え、姉川の戦い,長篠の戦い,小牧・長久手の戦いに参戦した。江戸幕府では、本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切り、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた。その後、1619(元和5)年に頼宣が紀伊和歌山城に移ると、直次も紀州藩附家老として同国田辺に3万8000石の所領を与えられている。
城跡は矢作川,乙川のすぐ東に位置し、現在の真宮遺跡公園(真宮遺跡)と熊野公園辺りとされるが、遺構は残されていない。六名城跡の北200mほどの所に影山城跡がある。