安土城跡
あづちじょうあと (Azuchi Castle Ruins)
【C-SG001】探訪日:1990/8/22・2016/9/24
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
【MAP】
〔駐車場所〕
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1576(天正4)年1月、織田信長が総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護・六角氏の居城の観音寺城の支城があった安土山に築城を開始した。築城の目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できる利便性、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことと推察されている。1579(天正7)年5月に完成した天主に信長が移り住んだ。1582(天正10)年5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。
同年6月の本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地の日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が何らかの原因で焼失した。ただ、その後も信長の嫡孫・秀信が清洲会議の後に入城するなど、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子・豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585(天正13)年をもって廃城されたと伝わっている。
当初の天主は地下1階地上6階建てで高さ約32mと、それまでにはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。天下布武を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、天主には信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、前田利家,羽柴秀吉などの家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。安土城は総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣に天守の上がる城とされる。その普請は石垣職人集団「穴太衆」が行っている。また、城山の中腹には摠見寺が建てられたが、城山に堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは安土城だけである。
なお、安土城の特徴として防御性の低さも指摘される。大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続く(通常は敵の侵入を阻むため細く曲げる)。また、籠城用の井戸や武者走り,石落としなども著しく少なく、軍事拠点としてよりも政治的な機能を優先させて築かれたものと考えられる。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

▲遠景

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▲前田利家邸跡

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▲木樋

▲羽柴秀吉邸跡

▲羽柴秀吉邸跡

▲羽柴秀吉邸跡

▲羽柴秀吉邸跡

▲羽柴秀吉邸跡

▲羽柴秀吉邸跡

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▲武井夕庵邸跡

▲武井夕庵邸跡

▲武井夕庵邸跡

▲織田信忠邸跡(1990年撮影)

▲黒金門跡

▲黒金門跡

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▲二の丸跡

▲織田信長廟

▲織田信長廟

▲織田信長廟

▲織田信長廟

▲本丸跡

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▲本丸跡

▲本丸跡

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▲天主台跡

▲天主台跡

▲天主台跡

▲天主台跡

▲天主台跡からの眺望

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▲織田信澄,森蘭丸邸跡(1990年撮影)

▲佛足石

▲摠見寺本堂跡

▲摠見寺本堂跡

▲摠見寺三重塔

▲二王門

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