行明城跡
ぎょうめいじょうあと (Gyomei Castle Ruins)
【C-AC226】探訪日:2019/2/23
愛知県豊川市行明町末広
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、建久年間(1190~99年)頃に星野荘の地頭であった星野日向守によって築かれたとされる。南北朝時代には星野行明なる人物が現れるが、星野日向守との関係、両者の実在性については不明な点が多い。
『太平記』によれば、1360(延文5)年、星野行明らが三河守護仁木義長に背いて細川清氏方についたため、所領を没収された。星野氏は天羽衣(天皇践祚後の大嘗会の儀式に使われる)調進役を勤めてきた家柄であったことから、1466(文正元)年の大嘗会の際、星野四郎宗範が星野庄の本領回復を願い出たようであるが、叶わなかったとされる。この時点で星野庄は幕府御料所となり伊勢貞親が代官となっていた。その後も所領の維持は安定ではなかったが、土着した行明の子孫は戦国の世を生き抜き、今川氏に属したという星野一閑は東三河十七騎に数えられている。その嫡子星野日向守は今川氏衰亡後、東三河に進出して来た武田氏に属し、1575(天正3)年の長篠設楽原の戦いで討死した。
行明城は豊川と豊川放水路との間付近に築かれていたとされ、主要部は豊川放水路によって消滅しているが、豊川側の土手に近い宅地の裏側に土塁と空堀の一部が現存している。
城址近くには星野行明にまつわる伝説の羽衣の松、星野氏の菩提寺である行明寺、星野氏の崇敬社である行明神社がある。