片瀬城跡
かたせじょうあと(Katase Castle Ruins)
【C-SZ100】探訪日:2023/4.9・11.25・12.9
静岡県周智郡森町一宮字片瀬
【MAP】
〔駐車場所〕南の八面神社前もしくは高速道路下の空き地に駐車させていただく。
築城年は定かではないが、今川氏没落後の武田氏と徳川氏が遠江で覇権争いする中、武藤刑部丞氏定によって築かれた。武藤氏は九州少弐氏の一門で、武藤頼平の3男・頼高が、1180(治承4)年に源頼朝の臣・安田義定が遠江守に任ぜられた際に一宮領の代官(目代)として当地に移り住んだのが始まりとされる。
時代は下り、桶狭間の戦いで今川義元が敗死し子の氏真の代になると、今川領は武田氏と徳川氏の草刈り場となり、遠江の国人たちは次々に今川氏から離反した。一宮荘の国人である武藤氏定はいち早く武田氏に臣従し、徳川家康の侵攻に備えて領内12ヶ所に城砦を築いた。武藤氏の居城であった草ヶ谷城、そしてその周囲に森之城,粟倉城,松ヶ谷砦,宇藤の谷砦,丸山城、さらに一宮荘に真田城(一宮城),十王山砦,西の谷砦,薬師山砦,思案坊砦、そして片瀬城もこの時期に築かれた可能性がある。しかし、徳川勢の侵攻が素早く、氏定は一旦、一宮荘を退去して甲州へ逃れた。
1572(元亀3)年、氏定は西上作戦をとった武田信玄の大軍に属し、再び一宮荘へと戻った。しかし、信玄は家康を三方ヶ原の戦いで破ったが進軍途中で死没した。すると、1573(元亀4)年6月、家康は反撃に転じ一宮荘へ進軍したため、氏定は再び甲州の武田勝頼のもとへ遁れた。11月(天正に改元)には勝頼本隊がこの地へ出馬している。
その後、氏定は武田勝頼の命によって高天神城に入り、1581(天正9)年3月、徳川勢との戦闘で討死した。
城は痩せ尾根上の南北800ⅿ以上に亘り10以上の曲輪が連なる長大な連郭式山城である(下の縄張図に示されない曲輪もあるという)。主郭の南には二の曲輪と区別する大堀切があり、北側にも四の曲輪との間に堀切が設けられている。二の曲輪の南に三の曲輪が続き、さらにその南には堀切に囲まれた馬出曲輪が確認されており、武田系の山城に見られる遺構であることから、武藤氏のあと、武田氏が改修を加えたと考えられている。
現在は城跡を第2東名高速道路は東西に横切り、北側はゴルフ場となり、遺構は部分的となっている。八面神社北の墓地の西端から城跡へ入る高速道路南側の城跡をみるルートと、高速道路北の階段を登り北側城跡をみるルートがある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1180年 | 1569年・1572年・1573年・1581年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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武藤氏定 | F972 | 武田信玄 | G433 | 徳川家康 | TG01 |
高速道路がどの曲輪を横切っているのかはっきりしないが、大堀切が確認できたこと、その南に曲輪があることから三の曲輪の南側が削られているように思われる。主郭の北側には一部金網フェンスがあり、おそらく四の曲輪はゴルフ場に変わっているものと思う。南側については馬出曲輪が高速道路の真下ではないか(消滅)。さらに縄張図の曲輪⑦と⑧の北側も削られ消滅している。道路南側の金網フェンスは⑧に張られていると推定される(縄張図に消滅部位を入れてみた)。
片瀬城縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』に加筆)