青田山砦跡
あおたやまとりであと(Aotayama Fort Ruins)
【C-SZ117】探訪日:2024/4.14
静岡県掛川市杉谷734
【MAP】
〔駐車場所〕
1569(永禄12)年、武田信玄に駿府を追われた今川氏真が入城した掛川城攻略のため、徳川家康が掛川城包囲網の一つとして築いた砦である。
1568(永禄11)年12月22日から掛川城攻めが始まったが、長期戦に備え、家康は翌年正月に入り所々に付城(砦)を築いた。青田山砦には懐柔された高天神城の小笠原与八郎氏助一党と竹谷,形原,東条松平一門が守備したとされる。本砦は掛川城への兵糧を抑える重要拠点であったと考えられている。掛川城をめぐる攻防戦は結局、両者の和睦締結により、氏真の掛川城開城で終結した(兵糧が尽きたともいわれる)。
砦は塩の道が掛川城下に抜ける陣場峠の丘陵上(標高109m,比高60m)に位置し、掛川城はじめ徳川方の付城がすべて見渡せる要地である。城域は東陣場と西陣場が配置されていたが、西陣場は畑地開墾により遺構の確認は困難になっている。東陣場も茶畑開墾が施されているが、主郭には平場と土塁の一部と思われる土壇が残されている。北の細尾根の先に堀切が認められる。また、広大な3郭は兵の駐屯地とみなすことができ、主郭南の幅広の横堀を通って、2郭から北西の尾根を下り、掛川城へと出撃したと考えられる。
また、後年の1574(天正2)年、高天神城の小笠原氏助が武田勝頼に攻められたとき、青田山から家康に援軍要請の狼煙を3回揚げたが、援軍は来ず、氏助は武田氏に降伏開城し軍門に降った(勝頼から偏諱を賜り、以後「信興」と名乗っている)。