火ヶ峰西砦跡

ひがみねにしとりであと(Higamine-nishi Fort Ruins)

【C-SZ137】探訪日:2024/9.8

【C-SZ137】火ヶ峰西砦跡 静岡県掛川市中方

【MAP】

〔駐車場所〕駐車場はないが、砦北側に若干の駐車スペースがある。

   『家忠日記』によれば、徳川軍による高天神城奪還に向けての高天神六砦の一つとして、1580(天正8)年6月に横須賀城主・大須賀康高率いる横須賀衆によって構築された。横須賀衆はこのほか獅子ヶ鼻砦安威砦中村砦も普請している。
 火ヶ峰砦は遺構が失われ、現在、位置について2つの説(西と東)に分かれているが、高天神六砦の中では高天神城に最も近く、かつ、最も規模が大きかったとされる。城域は1kmを超える長大なものであり、高天神城と甲斐国との経路を遮断する巨大な壁のようであった。高天神城に立てこもっていた横田尹松は、この火ヶ峰砦の完成を目にして敗戦必至を悟り、内密に武田勝頼に高天神城を見捨てるよう書状を出したという。
 徳川軍による高天神城攻めは1580(天正8)年9月に開始され、その後の兵糧攻めの結果、翌1581(天正9)年3月22日、城は陥落する。
 火ヶ峯西砦は標高73ⅿ,比高30ⅿほどの丘陵地で、東の最高部が主郭と考えられ、その西下に腰曲輪(2郭)をもち、西(3郭)と南(5郭)の高台は見張台とみられる。すぐ東側には元は一体とも思える火ヶ峯(東)砦、南には安威砦が築かれている。安威砦との間には道路が通り、砦周辺も茶畑造成が進んでいるため、どこまで原形を留めているかは定かではない。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1580年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大須賀康高 H455

 

【C-SZ137】火ヶ峰西砦跡
  

 

【C-SZ137】火ヶ峰西砦跡

 

火ヶ峰西砦縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』に加筆)

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南から見た全景(左側は安威砦の北部) 西からの全景 西からの全景 北からの全景 西側茶畑のここから入る 3郭(見張台) 3郭(見張台) 西の茶畑を見下ろす(さほど高くはない) 主郭側へ向かう 2郭(腰曲輪) 2郭(腰曲輪)の先に主郭が見える 主郭 主郭 主郭 2~3郭間の斜面 西の茶畑から見た高天神城方向