黒野城跡
くろのじょうあと (Kurono Castle Ruins)
【C-GF014】探訪日:2015/9/5
岐阜県岐阜市黒野327-6
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、1594(文禄3)年以降に加藤貞泰によって築かれた。父の加藤光泰は甲斐国24万石を与えられていたが、朝鮮の役からの帰国途中に急死し、家督は嫡子貞泰が継ぐこととなったが、幼小であったために美濃国厚見郡,方懸郡約4万石に削封され黒野城を築いて居城とした。
関ヶ原合戦では当初西軍側の岐阜城城主織田秀信についたが、貞泰らは以前から石田三成に恨みがあり、犬山城に入った加勢衆を東軍に味方するように説得し開城させた。岐阜城が落城すると貞泰は西軍の大垣城の押さえとして本田村に布陣した。関ヶ原では黒田長政,竹中重門と共に岡山烽火場に布陣し、本戦では島津隊と戦っている。貞泰は戦後、家康より黒野城と4万石は安堵され、その後、1610(慶長15)年に伯耆米子藩6万石へ加増移封され、4万石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となった。1代わずか16年間の存在だった。
黒野城は本丸を中心に二の丸,三の丸と三重の堀に囲まれた輪郭式の曲輪を配する。規模は東西約1,000m、南北約800m。外堀の土塁は防御に適した凹凸形状の横矢構造で、要所には門,神社や寺院が風水思想で配置されていた。本丸北の多賀神社裏手に、東西に650m,幅約4~5m,高さ約2mの空堀跡が残っている。本丸の規模は約110m四方の方形で、その土塁は高さ約5m,幅約15mの堀に囲まれていた。入口は枡形虎口で織豊系城郭の特徴があり、現在の城址碑付近に石垣に囲まれた城門と橋があった。また、本丸土塁上の北西と南東隅には櫓が設けられていた。