阿倉川城跡
あくらがわじょうあと(Akuragawa Castle Ruins)
【C-ME158】探訪日:2024/12.19・12.26
三重県四日市市西阿倉川836
【MAP】
〔駐車場所〕
『海蔵小誌』によれば、平安時代後期に舘氏の祖先・舘太郎貞康が越中国から移り、最初に現在の西阿倉川にある浄覚寺の地に館を構えたのが始まりとされる。城は、築城年代は定かではないが、館貞太郎貞治(阿久良川氏とも称した)によって築かれたとされ、城主には貞治のほかに館薩摩守の名を載せる史料もある。舘氏は100騎足らずの小土豪であったようで、その館も極めて小規模なもので屋敷内には若党や下人を住まわせ、城の周囲に家臣の住居を置き、戦さには家臣のほか農民も雇い入れて戦ったとされる。すぐ北に位置する羽津氏の羽津城とは小競り合いが頻繁に起きていたとされる。
1572(元亀3)年、羽津城主だった羽津近宗が、茂福城の目代・山口四郎右衛門(滝川一益の家臣)に招かれ毒殺されると、これに乗じで舘氏も羽津へと侵攻した。翌1573(天正元)年4月28日、浜田城主の浜田遠江守元綱が200騎兵で阿倉川城を攻め寄せ、城主の舘薩摩守は次男の兵庫,3男の弥三郎貞隆の100騎兵を率いて阿倉川城の南方面3~4kmの深い田んぼの土地と細道で応戦した。浜田勢を約6kmまで後退させたが、この阿倉川合戦で弥三郎貞隆が鉄砲攻撃で戦死している。
城の場所については確定されておらず、浄覚寺一帯とする説と、海蔵小学校の南東約200m近辺(近鉄名古屋線・海蔵川鉄橋付近)とする説,唯福寺北西辺りを主郭とする説など諸説あるが、現在いずれも遺構は残されていない。なお、浄覚寺には、城跡付近で発見された五輪塔が数基置かれているという。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1573年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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舘 貞治 | **** | 館 薩摩守 | **** | 舘 貞隆 | **** |
浜田元綱 | FU03 |