茂福城跡
もちぶくじょうあと (Mochibuku Castle Ruins)
【C-ME094】探訪日:2021/10/6
三重県四日市市茂福町26-26
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、1400年前後に平貞冬が越前国朝倉より茂福へ移り築き、朝倉貞冬(盈盛)を名乗ったとされる。保々西城の朝倉備前守と同族の朝倉一族である。その後、朝倉下野守が北勢四十八家として茂福氏と称した。
1560(永禄3)年、茂福氏は関氏を巻き込みつつ羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍が富田浜に上陸して茂福合戦が起きた(茂福氏が勝利)。しかし、1567(永禄10)年、最後の城主となる茂福掃部輔盈豊は、六角義賢に通じたとして織田家の武将・滝川一益に裏切りの不信をもたれて長島城へ誘い出され殺害されてしまう。斬られた主人の首は家臣の小川宗春が奪い取り、朝倉氏の本拠地である朝明郡保々に葬られた。城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが攻め落とされ、跡には山口次郎四郎が目代として置かれたという。
城跡は朝明川と海蔵川が形成した沖積平野に位置し、縄文時代~古代の里ノ内遺跡と同じ場所にある。現在は近鉄名古屋線の線路脇に主郭北西隅の土塁の一部とされる高まりが残存するのみで、土塁以外の遺構は埋没している。発掘調査では、主郭は60m×65mの規模で土塁と空堀が左右にあったとされる。