高松城跡
たかまつじょうあと (Takamatsu Castle Ruins)
【C-KG001】探訪日:2019/7/20
香川県高松市玉藻町2
【MAP】
〔駐車場所〕
1588(天正16)年、生駒親正によって築城された。 伊予国今治城、豊前国中津城と共に三大水城の一つに数えられる。播磨国赤穂城主の生駒親正は1587(天正15)年の豊臣秀吉による四国征伐後、讃岐一国17万3千石の領主となり、はじめ引田城に入ったが領地の東に偏りすぎていたため聖通寺城に移った。しかし、ここは山城であり城下町を形成するには不向きであったため、当時、玉藻浦と呼ばれていたこの地に築城した。1640(寛永17)年、生駒騒動により生駒高俊が出羽国矢島へ1万石で転封となり、1642(寛永19)年に常陸国下館より松平頼重が東讃岐12万石で入封し、以降、松平氏の時代が明治まで続く。
高松城は天守台を持つ本丸があり、それを取り囲むように北に二の丸、その東に三の丸、南に桜の馬場、西は西の丸を配していた。松平氏の時代に三の丸の北東は北の丸、さらに東に東の丸が拡張された。本丸は四方を内堀が巡り、唯一鞘橋によって二の丸と繋がっていた。本丸は小さく、東に張り出すように天守台があり、かつては南蛮造りの三重四階地下一階の天守が聳えていたが、1884(明治17)年に取り壊されている。近年の天守台石垣改修工事の際、天守の地下部分が発見された。
二の丸は本丸の北にあり、北西にある現在の西入口が西の丸、水門のある所が三の丸へと繋がる虎口となっており、北西隅には簾櫓、その南に弼櫓、南西隅に文櫓、北東隅に武櫓、その南に黒櫓があった。三の丸には、松平氏時代の披雲閣があったが、これも明治に入って取り壊されてしまった(現在の披雲閣は1/2の規模で大正時代に復元)。
三の丸の北にあるのが北の丸で、北西隅には三重三階の月見櫓付続櫓,水手御門,渡櫓が現存しており、北東隅には鹿櫓があった。北の丸の南東にあったのが東の丸で、石垣が北から東に掛けて残存あるいは復元されている。現在太鼓櫓跡に移築現存している艮櫓はこの東の丸の北東隅にあり、櫓台が残っている。
三の丸の南に東西に長く広がるのが桜馬場で、その東には旭門と太鼓御門による桝形があり、外側には旭橋が架かる。この旭橋は斜めに架かっており、横矢が掛かりやすくしている。
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▲城跡入口(簾櫓跡)
▲簾櫓跡
▲二の丸横を通って鞘橋,本丸,天守台へ
▲二の丸跡
▲奥に鞘橋が見える
▲鞘橋
▲鞘橋
▲鞘橋からの天守台跡
▲天守台跡
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▲虎口
▲本丸跡から見た天守台
▲天守台
▲天守台内部
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▲天守台から見た本丸跡
▲天守台から見た鞘橋
▲天守台から見た三の丸
▲天守台から見た水門
▲「天守地下1階発見」説明板
▲「地久櫓」説明板
▲地久櫓跡
▲「水門」説明板
▲水門
▲披雲閣(旧松平家高松別邸)
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▲北の丸月見櫓
▲北の丸月見櫓
▲「北の丸月見櫓,水手御門,渡櫓」説明板
▲水手御門
▲渡櫓
▲渡櫓
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▲「鉄門」説明板
▲鉄門