西広瀬城跡
にしひろせじょうあと (Nishi-Hirose Castle Ruins)
【C-AC433】探訪日:2021/8/11・2021/8/31
愛知県刈谷市小垣江町須賀
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、1460(寛正1)年頃の城主はこの地の土豪・佐久間信盛(後の織田信長家臣となる信盛とは別人)だったという。1531(享禄4)年頃、松平三郎左衛門家範が城主となったが、1533(天文2)年には佐久間全孝(重行)が入った。佐久間氏は松平氏と対立関係にあり、近隣の豪族たちと共に松平氏の岡崎城を攻撃したが、松平清康によって撃退され、逆に清康からの攻撃を受けて落城、各所を転々とする身となった。
その後、守山崩れによって清康が死去すると、佐久間氏は西広瀬城に返り咲き、再び松平氏と対立する。1549(天文18)年、全孝は岡崎に刺客・岩松八弥を送り込み、松平広忠を暗殺した。これに対して、松平氏は全孝暗殺のために天野賢景を西広瀬城に派遣し、全孝は重傷を負ったという。
1554(天文23)年、御船城主,東広瀬城主の三宅右衛門太夫貞保,高貞,光貞らに攻められ、三宅帯刀が入城した。しかし、1558(永禄元)年には三宅高貞は織田方に寝返ったため、1561(永禄4)年には松平元康に攻められ大敗を喫した。
そして、1576(天正4)年頃からは、織田信長家臣の佐久間信盛や兄弟の信直,嫡男の信栄が居城した。しかし、1580(天正8)年に信長から追放されると父共々高野山に入った。信栄は父・信盛の死後、1582(天正10)年1月に赦免されて織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いにも従軍している。
西広瀬城は矢作川と飯野川の合流点に位置し、急峻な切岸の上に主郭,二の曲輪,三の曲輪が北から順に並び、主郭の北西に土塁,櫓台が残る。
なお、北東約850mのところに広瀬古城跡、矢作川を挟んだ東南に東広瀬城跡がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1460年 | 1531年・1533年・1549年・1554年・1558年・1561年・1576年・1580年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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佐久間信盛 | H504 | 松平家範 | MT** | 佐久間全孝(重行) | H50* |
岩松八弥 | **** | 松平広忠 | MT01 | 天野賢景 | F01* |
三宅貞保 | MY02 | 三宅高貞 | MY02 | 三宅光貞 | MY02 |
松平元康 | TG01 | 佐久間信直 | H503 | 佐久間信栄 | H504 |
夏だったということもあり雑草が生い茂って城跡へ行く道が全く見えず、最初は西側の山頂まで行ってしまった。改めて堀切のところから東へ入ると、竹林ではあるが、ぐるりと腰曲輪を確認することができた。歩き回っているうちに階段を見つけて、一の曲輪,二の曲輪へと登った(階段は一の曲輪北西の土塁の上に出る)。残念なのは、階段が途中で崩れ、案内ロープも一部が土の中に埋もれていたり整備がだいぶ荒れていたこと。むしろ、登り口され見つかれば南側の民家裏(地図の橋から3本目)からのルートの方が緩やかで登城しやすい(登り口の案内はなく今回は階段が雑草に覆われていたが)。
西広瀬城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)