三木城跡
みつぎじょうあと (Mitsugi Castle Ruins)
【C-AC283】探訪日:2020/3.12・2023/6.26
愛知県岡崎市上三ツ木町城堀37
【MAP】
〔駐車場所〕企業用駐車場はあるが、近くの道路に路駐させていただく。
築城時期は定かではないが、松平宗家6代・松平信忠の3男・松平康孝が築き、1542(天文11)年に康孝が嫡子無く早世すると、兄の合歓木城主・松平信孝が三木城を横領し移り住んで三木松平家の祖となった。
1535(天文4)年の守山崩れで宗家7代・松平清康が亡くなった後、信孝は8代・松平広忠の後見役を務めたが、松平親長と康孝の領地を横領するなど、次第に専横が目立つようになった。そこで、1543(天文12)年、宗家の危機感を感じていた岡崎老臣衆は病気の広忠に代わり、信孝に今川義元の駿府の年頭参賀へ行かせ、不在の間に信孝の知行と三木城,屋敷を占拠した。これを不服とした信孝は織田信秀と結び、1547(天文16)年、上和田城主・松平忠倫,上野城主・酒井左衛門尉らと織田軍として岡崎城攻撃のために出陣するが、矢作川を渡って来た広忠勢と渡河原(渡古戦場)で激戦の末、敗退する。そして、1548(天文17)年、小豆坂の戦いの後、岡崎城を攻撃しようと出陣した際、耳取縄手で広忠軍の射た矢に当たって討死した。信孝の墓は岡崎市上和田町北屋敷の浄珠院にある。
2代三木城主の重忠は松平広忠,徳川家康に仕え、1590(天正18)年の家康関東移封に伴って移り大番頭になったが、3代・松平忠清には嫡子が無く断絶した。
主郭は東西約54m,南北約90mの長方形で周囲より約2mほど高く、北に虎口曲輪を備えていたという。現在、城跡はたまご工場,住宅,畑となっており、遺構は残されていない。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
関連年号 | 1547年・1548年 | 1590年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
松平康孝 | MT01 | 松平信孝 | MT40 | 松平広忠 | MT01 |
松平重忠 | MT40 | 松平忠清 | MT40 |
ついに不審者と間違えられてしまった。城跡は住所から(株)太田商事たまご工場の辺りであろうと周辺に痕跡がないかとぐるぐると廻っていたら、犬の散歩をしていた頑固そうな老人に「何をしているんだ」と声をかけられ、不審者に見えたぞと言われてしまった。結局、ここが城跡だったと教えて頂いたが、確かに何もないところをカメラ片手に歩き廻っていたら怪しまれるのも仕方ないかもしれない(1ヶ月ほど前は別の史跡で「役所の人ですか」と声をかけられた)。
〔追記〕2023年6月に2回目に訪れたときには、立派な城址碑と説明板が設けられていた。時期(2022年11月)から見て、NHK大河ドラマ「どうする家康」を意識したように思えるが、いずれにせよ、これで不審者に間違えられることはなくなるだろう。